五祖は言われた:本心を守ることで、自ずと妄念は生じない。五祖の意味は、我々に自性清浄心を不生不滅の真実の心と認めさせ、虚妄なる五蘊の身を自己と認めず、生滅する妄心を自己と認めないようにさせることである。ただこれを行うだけで、真の明心悟道の者となり、生死流転を免れることができる。
そして真実の心を証得した後は、それを守り見張る必要はない。なぜなら真実の心は、あなたが守ろうと守るまいと、常に運行しているからである。逃げることもなく、失われることもなく、滅びることもない。何を守る必要があるのか?ただ我々の意識心が真実の心である如来蔵の体性に依止し、自らを改めることで、心は次第に清浄になるのであり、それを捉え見張れと言っているのではない。この「守」とは依止して認める意味であり、それを真実とすることで、再び外に向かって貪り求めることがなくなるのである。我々の六識心(身口意の行い)は如来蔵の清浄な体性に依止して造作すべきであり、如来蔵の清浄な体性に依止すると同時に、自らの妄心である七識も清浄にすること、これもまた「守」である。
悟った後は、終日真実の心を見張り、それに執着する必要はない。そうすることでかえって束縛が増し、執着が強まる。内心が真実の心にも三界の法にも執着しなくなれば、牢関に至ることができ、その後生死の牢関を超えることができる。ある人々は、悟った後は保任(保持し任せる)が必要だと言うが、保任すべきは意識心であり、意識心が妄念を起こさないように保任するのである。彼らは妄念が起これば真実の心ではないと考え、そのためできるだけ長く無念の状態を保とうとし、これが真実の心を守ることだとする。実際に彼らが守っているのは意識という妄心であり、真の真実の心は守る必要がない。それは本来そのようなものであり、もともとそうである。逃げず、失われず、変異せず、ましてや消滅することはない。しかし守る必要があるのは、明心以前に真実の心を真の自己と知り、真実の心を自性として認めることであり、明心後は真実の心の体性に依止して自らの心の行いを改め、貪・瞋・痴・慢などの煩悩を降伏させ、心を清浄にし、私心や慢心を起こさないようにすることである。これが守るべき方法なのである。
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