衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年07月05日    木曜日     第1開示 合計710開示

順次に仏法を修行すればこそ、功徳は無駄になりません

学び修行するにあたり、いかなる程度の法を学ぶにせよ、我見を断っていない者は、これら一切の法が無常であり変化生滅するものであり、すべて如来蔵より出生し顕現したものであり、我ならず、また我の所有に属さないことを思惟観行しなければなりません。明心見性していない者は、これら一切の法がすべて如来蔵によって出生され保持されているものであり、如来蔵の働きによって現れ出たものであることを思惟観行し、いかにして如来蔵の跡を尋ね求め、一切の法が如来蔵によって出生され運行されていることを証知するかを考えねばなりません。明心して証悟した後の菩薩は、如来蔵がいかにしてこれら一切の法を出生するか、いかにしてこれら一切の法を運行するか、五蘊とどのように密接に連携しているか、七識とどのように和合して作用しているかを思惟観行し、智慧をますます深く広くしていくべきです。

このようにすれば、私たちはいかなるレベルの仏法に触れても、自ら深く思索を引き起こし、利益を得ることができ、学法は無駄にならず、様々な観行の智慧が生まれ、そして増長され、後に次第に理事円融を実現できるようになります。理とは通常、如来蔵の心体を指しますが、如来蔵は六塵の境界に対して無知であり、六塵を知ることのできる心体ではなく、したがって事を知りません。一方、事自体には根拠がなく、事の源は如来蔵の理体であるため、事の根源はすなわち如来蔵の理体なのです。

明心の後、仏性を見て、如幻観を証得すると、身心世界は幻のごとく化したように感じられ、実在しないと感じられます。一切の法が如来蔵によって幻化されたものであると観察し、身心世界が真実でないと感じるのは、実際の感覚であり、想像で生み出されたものではありません。それゆえに心の行いが変わり、自我と世界に対する見方が変わります。自我の身心に対する変化は、意根が仏性が真実であり、自我の五陰が幻化して実体がないという真理を認識するためであり、それゆえ色身への支配を緩め、身心が緩むことで、軽安や愉悦など殊勝な境界が現れます。この観行の中で、意識が現量において仏性を証得し、現量で仏性の殊勝で美妙なものを感じ取り、意根が仏性の真実を了知し認可することで、六塵の境界を顕現させることができ、自我の五蘊は幻化されたものであると悟り、もはや五蘊身に束縛されず、色身はある種の解脱を得て、軽安や快適さなど一連の転変と変化が現れます。意根の認可は即ち現量証であり、この時、貪瞋痴の煩悩は軽微ですが、断たれたわけではなく、小乗の二果における薄い貪瞋痴に相当します。大乗を修学する者が、仏性を見ず、如幻観を証得していない時は、貪瞋痴を薄くすることはできず、二果の者ではありません。もし自身の貪瞋痴が軽微だと感じるなら、それは単なる感覚に過ぎず、現量で二果を証得したものではないのです。

初禅の後、自他の七識心を観行すると、陽炎のように、まるで砂浜が強い日光に照らされて立ち上る熱気によって形成される虚妄の河水のように不実であると感じられます。これは実際の観行による自らの体験であり、想像で生み出されたものではありません。陽炎観を証得した後は、各人の心識が非常に虚偽であることを現量で観察できるため、自他に対する一分の執着心と貪愛心が除かれ、識心の覚受は非常に際立ったものとなります。それは意根が触動されたためです。この観行は、禅定がなければ現前に実際に観行して現れることは不可能であり、親証することはできません。

禅宗で三関を通過した後は、自ら世間の一切の人・事・物理を観行することができ、あたかも夢の中のように、すべてがそのように不実であると観じ、また自身の過去世の経験も夢の中の出来事のように観行できます。前世の事柄について、自らある程度理解し、自身の前世の身分、行ったこと、接触した人々などを知ることができます。これもまた親証の境界であり、想像で生み出されたものではなく、理解によるものではありません。理解した理や法はすべて色あせて力なく、解脱の功徳受用はありません。単なる理解や想像に留まらないためには、禅定の中で観行し実証するほか、他の道はないのです。

——生如法師の開示
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三界の世間において、いったい何法が唯識ではないのでしょうか

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明心以前に我見を断つことが極めて重要です

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