表面上の聡明さはすべて意識心の慧であり、比較的浅薄で、軽薄で誇張された印象を与え、深沈さがなく、落ち着きがなく、信頼性に欠ける。なぜなら意根の慧ではないからで、真の慧とは言えない。意根の慧は、深沈さ、執着、沈着、信頼性、信用できるという形で現れ、人に安心感を与える。意根が六塵の境界において行う微細な分別の智慧は比較的劣っており、分別の力が弱く、一種の愚痴性を有している。善悪の区別がつかず、良し悪しを判別できず、優劣を見分けられず、東西南北を知らず、長短方円を理解せず、男女を弁別できない。意識の導きがなければ、意根は常に錯乱した了別を行い、東を西と見做し、此れを彼れと認識してしまう。しかし意根が持つ概括的・総体的な了別性は、意識の及ぶところではない。なぜなら意根は一切法の全局と全貌を掌握しており、重大な事柄に対して迅速な判断と決断を下し、六識に急速な緊急対応を指揮させ、多くの災難の発生を回避することができるからである。
意根が六塵において行う了別の慧は依然として存在するが、意識が行うような具体的で微細な了別ではない。その職務範囲が異なるため、意根は総体的な配置と総合的な智慧を司り、細部に至るまで全てを掌握することは不可能である。微細な事柄は全て配下の六識が担当し、意根にはそのような余力が無い。そうでなければ重大な事柄を掌握できなくなる。
意根と意識の分業は具体的な事例で説明できる。例えば就寝中に布団を蹴ってしまい、身体が布団に覆われず寒さを感じる場合、意根がこの状況を了別するが自ら処理できず、心の中でこの事を気に掛ける。すると如来蔵が意根の思心所を了別し、意根のために夢境を顕現させてこの問題を解決する。意識は自分が寒冷な環境に置かれている夢を見て、寒さを感じる。意根は身体が寒さを感じていることを知り、布団を掛ける決断を下す。この時意根は夢の中と現実を区別できず、夢の中の境界を現実と見做して決断する。意識も夢の中か現実か判別できず、夢境を現実と認識して意根の決断に従い布団を掛ける。ただし布団を掛けられる意識はもはや独頭意識ではなく、五倶意識となっており、これに身識が現起して共に布団を掛けることになる。意根が夢の中と現実を区別できないのは無慧であるが、方法を考えて処理できるのは慧である。身体に特殊な状況が生じたことを了別できるのも意根の了別慧である。具体的な状況の分析と処理は意識の職責に属し、両者はこのように分業協力するのである。
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