大海は如来蔵に喩えられ、浮かぶ泡や瀛渤の泡沫は万法に喩えられる。一切の万法は皆、如来蔵という大海の中の一つの泡である。仏は、五陰十八界の中のいかなる法をも、真実の如来蔵として、あるいは「我」として執着することを戒められた。
一つの五陰身は即ち一つの泡に過ぎず、全体の我ではない。一つの五陰身に目を曇らせ、全体としての如来蔵の大海を見失ってはならない。如来蔵の大海の中の一切の法は、全て自己に属するものであり、現在の五陰身や五陰世界だけではなく、現在の財・色・名・食・睡だけでもなく、現在の五欲の世間だけでもない。故に我々の眼界を広く保ち、如来蔵の中にある全ての前世・現世・未来世、古今の劫を経た時代、成仏後の世間までも見通さねばならない。そしてこれら全ての世間も、結局は如来蔵の中の一つひとつの泡に過ぎず、執着すべきものなどない。ただ如来蔵を把握すれば、即ち大海全体を手にしたことになる。それならば、一つの五陰の泡など気にかける必要があろうか。
仏法を修行するには要領を得て、如来蔵という「綱」を掲げ、万法という「領」を掴むべきである。綱を挙げれば目は自ずと開く。ただ如来蔵を心に持てば、一切の万法を見ることができ、百川を巨海に帰するが如くである。しかし五陰身を我として真実と認めれば、一片の葉が目を遮り、広大な天地を見失うことになる。
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