衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年08月28日    火曜日     第2開示 合計803開示

用心とは何を指すのか

心を込めて花を育てれば、どの花も育てることができる。心を込めて料理をすれば、どの料理も美味にできる。心を込めて人と交われば、どの友も善き友となる。心を込めて人を愛すれば、誰もが身内となる。心を込めて事に当たれば、どの事も良い事となる。心を込めて人として生きれば、誰もが良い人となる。心を込めて念仏 (buddhānusmṛti) すれば、どの仏も功徳となる。心を込めて魔を降伏すれば、どの魔も消し去ることができる。心を込めて法を求めれば、どの法も心を明らかにする。心を込めて禅を参じれば、どの禅も性を見る。心を込めること心を込めることを重ねれば、どの心もみな無心となる。

以上のすべての活動には、識心があります。識心の働きがなければ、活動はなく、花を育てることも、友と交わることも、人として生きることも事を成すこともできず、念仏 (buddhānusmṛti) もできず、禅を参じることもできません。では、これらの活動の中で、なお心を込めなければならないのはなぜでしょうか。ここでいう心を込めるとは、何を指しているのでしょうか。

五陰 (pañca-skandha) の身のすべての活動において、意識が能動的に道理を明らめているのに、意根が受動的で道理を明らめていない場合、五陰 (pañca-skandha) の身の活動は行われてはいても、意根はすべて受動的に意識に牽引されているだけであり、興味を持たず、なぜそうするのかも分かっていません。それゆえ真誠ではなく、実心実意ではありません。これも無心と呼ばれるもので、このような無心では、種子を存することが非常に難しく、たとえ事が行われても、結果は理想的でなく、効果は乏しく、果報も軽微です。

最良の結果を得て、果報を殊勝なものとしたいならば、意識は意根にその中の真の道理を明らませ、意根を薫染して、意根に能動的かつ積極的に行うことを決定させ、主導的な役割を果たさせなければなりません。そうしてはじめて効果が良く、真誠であり、実心実意となるのです。如来蔵 (tathāgatagarbha) がこれに配合して、最良の成果を生み出し、最良の種子を存し、後世の果報もまた殊勝となるのです。

禅を参じる人もあり、念仏 (buddhānusmṛti) する人もあり、法を学ぶ人もあり、事を行う人もあり、人として生きる人もありますが、その中で意根が果たす役割が異なれば、その結果も異なります。意根がその中で真に心を込めず、うろたえ惑ったままで、専心にならず、あちこちに攀縁しているならば、効果は大きく損なわれ、結果は思いどおりにはならないのです。

——生如法師の開示
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意根の伶俐性に頼っても業縁業報は逃れられない

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意識はいかにして意根を薫習するのか

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