問:私が体験を通じて気付いたところでは、ぼんやりした状態はいつでもどこでも行うことができ、効率が非常に高いです。ぼんやりしている時間には長短がありますが、意根による法義の思量を使用することはできず、ぼんやりした状態で法義を思量するには入り口が必要なようで、すぐに習得することはできません。そこで思い切ってこのぼんやりする方法を修定の鍛錬に用いていますが、これは理に適っているのでしょうか。
答:もし意根を見出していなければ、ぼんやりした状態の中にも意根の思量性が存在することを知ることはできません。なぜなら意根の思量性は非常に隠微で発見しにくく、意根を証得しその働きを了知する必要があるからです。たとえ六識がすべて消滅した後でも、意根には依然として思量性や択択性、様々な識心活動が存在します。ましてや意識が定にある状況では、なおさら意根の識心活動があるのです。意根の心理活動は決して停止することなく、ただどのような識心活動を有し、どの法を思量しているかの違いがあるだけです。
このぼんやりした状態にも意識の深微な思惟作用が含まれており、意識の思惟と意根の思量を区別する必要がありますが、これは非常に困難なことです。長時間ぼんやりしていると、深くない法義を思量したり、難しくない問題を明確に考えたりすることができ、言語文字を用いずに行えます。多くの人が類似の経験を持っていますが、内観ができずまとめられないのは、意根の活動を理解していないからです。
私が意根の働きを観察できるからこそ、この修定思惟法をまとめることができました。もし私が意根の働きを観察できなければ、ぼんやりした状態で意根が起動し、働き、思量し、択択していることを知ることはできず、他人に伝え指導することもできなかったでしょう。発見と経験の総括もまた、智慧の結晶なのです。
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