衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年09月26日    水曜日     第2開示 合計851開示

意根断我見才是真断我見

六識がすべて滅して存在しなくなった後にも、なお我があるというのは、意根です。意根が我見を断していないなら、まだ我見が存在していることになり、依然として我見のある凡夫です。このときの我見は、覚醒しているときの我見と同じであり、差別はありません。意根に我見が存在しているため、「私は見聞覚知がなく、六塵を覚知することができず、六塵の中で何らの働きもできない」と思い、そこで六塵の境界を了別したいと心を起こすと、如来蔵が配合して六識を出生させ、見聞覚知が現前し、五陰が獲得されて出現します。すると意根は六塵の境界を執取し、見聞覚知を執取し、五陰の造作を執取して、三界の世間の中に繋縛され、解脱を得ることができません。

したがって、我見を断除するには、必ず意根も同時に断させなければなりません。意根に我見がなくなって初めて、さまざまな執取性が軽減され、心が解放され、解脱の智慧を得ることができるのです。死後の我見もまた、生きているときと同じであり、そのため我見によって五陰の身を執取し、中陰身および後世の五陰の身が絶えず出生します。そして再び出生するときの我見も前世と同じであり、前世と同じく凡夫の身のままであり、意根はやはり相変わらず執取し貪着します。それゆえ、衆生は意根の我見によって生生世世の循環反復が引き起こされ、業果が絶えず、生死が絶えることがないのです。

もし六識が一たび滅すれば我見も消えるのであれば、どんなに良いことでしょう。しかし残念ながらそうはいきません。それならば、意識だけに我見を断させても何の役にも立たず、根本的な問題は解決しません。やはり意根に我見を断させることが必要なのです。

——生如法師の開示
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仏法を学んで修行するということは、意根に一切法はすべて我ではないと確認させることである

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意根をいかに成功裏に薫修するか

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