仏道を修行するとは、意根に一切の法は我ではないと確認させることです。一旦全てを確認すれば、悟りに至り、それ以上修行する必要はありません。意根が一部分を確認すれば一部分の解脱を得、全てを確認すれば完全かつ徹底的な解脱を得ます。我があることは業障であり、無明です。我があるからこそ、様々な障礙が生じるのです。我が無ければ、もはや何ものも遮るものはありません。
ですから常に我を前面に押し出し、自分がいかに立派で聡明で智慧に満ち、他の誰よりも優れているかを見せつけるようなことをしてはなりません。このような我慢は甚だしく、完全に自らの道業を蔽い、進歩を止めるばかりか、退歩さえ招きます。我慢のために仏道から退転し、善法の利益を失った人々を多く見てきましたが、実に賢明とは言えません。
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