大乗を修める者の中には、基礎修行を軽視し、根本経典である阿含経の解脱道を疎かにし、大乗と小乗を断絶させて考える者がおります。これを是、あれを彼と分断し、相互の関連性を見失い、仏法を分裂させる現象が甚だしい。これはちょうど、中学校の課程を学ぶ者が自らを高尚と見做し、小学校の課程を顧みないようなもので、小学校の課程を修めずして卒業し中学に進むことができず、基礎がなければ中学校の課程についていけず、卒業も叶わぬ道理と同じです。
大乗を学ぶこれらの人々は三十七道品や八正道などを蔑ろにし、小乗の修行者のための教えと見做して軽視し、あってもなくてもよいと判断して飛び越え、直接第八識を修めようとします。戒定なきまま十年二十年と修行を重ねても、身心に一点の変化もなく真実の利益を得られず、仏法に馴れきった者として滔々と語り、その学識は科挙の状元に匹敵するほどです。しかしながら得た理論は空中楼閣の如く、理は高空にあり、人は地に這いずり回り、両者は交わることなく、どうして道に順って悟りを開けましょうか。高遠を好み現実を顧みぬ結果、いずれの法も成就できず、徒らに時を費やし、命終の時には修証なきが故に業風に漂い、自主を得られないのです。
我らは皆静かに心を鎮め、理知的に考えるべきです。大乗の学人が七覚支を具えるべきではないのでしょうか。択法覚支なき者は盲人が象を撫でるが如く、喜覚支なき者は学びが心に入らぬ証です。心に入らねば喜びが生ぜず、心に喜びなき者は身軽安を得ず、身軽安なき者は心定まらず、心定まらねば空を得ず、いずくんぞ智慧が生じましょうか。大乗の学人が四正勤を修めるべきではないのでしょうか。悪を断たず善を増さねば心は転じず、依然として業障に縛られた凡夫のままであり、一品の煩悩も断たねば、いかにして初果向に進み初果を得ましょうか。初果なき者に、どうして大乗の明心が叶いましょう。
大乗の学人は八正道を修めないのでしょうか。正見なき者が何の道を修めましょう。正思惟なき者がどうして禅を参じましょう。正語なき者がどうして心を守り五戒を保ちましょう。正精進なき者は道に背き、正念なき者がどうして心を正せましょう。心正しからざる者がどうして道に入れましょう。正定なき者に正慧あるはずがありません。身心ともに正しくなって初めて正道に入るのです。故に三十七道品を修めぬ者の修行は未だ門を叩かず、大小乗のいずれにも属さないと言えます。今この世で真の修道者に遇うことは極めて稀です。人々の心は浮つき、近道を好み短期的な利益を追い求めます。これは衆生の前世における根基浅く福徳乏しいことに加え、伝法者の扇動も相俟ってこのような状況を生じたのです。このまま改善なきならば、仏教に人材輩出の望みはありません。
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