阿毘達磨倶舎論第二十三巻原文:地地に失徳九有り。下中上各三なり。論に曰く、失とは過失を謂う。即ち所治の障なり。徳とは功德を謂う。即ち能治の道なり。先に已に弁えたるが如し。欲修して惑を断つに九品の差別有り。是の如く上地に至るまで、乃至有頂に及ぶも、例え亦た然るべし。断ずる所の障の如く、一一の地中各々九品有り。諸の能治の道、無間解脱の九品も亦た然り。
釈:三界の各地の過失と功德は総じて九種有り、九種の中に各々下・中・上の三種に分かたれ、粗く二十七種に分たれ、各々更に下・中・上の三種に分たれる故に、衆生の思惑煩悩は細かく八十一种に分けられる。
論中に説く、失とは過失なり。衆生の過失は貪・瞋・痴の煩悩にして、修道の対治すべき障害なり。徳とは功德なり。煩悩を対治する修道なり。若し煩悩を断じ惑を修めんと欲すれば九品の差別有り。修道には必ず禅定を修めざるべからず。定無くしては惑を断つこと能わず。欲界より三界頂の非想非非想天に至るまで、各地に九品の煩悩過失を断ずるを要す。然らば各品の煩悩過失を対治する修道も九品に分かたる。三界一切地の九品思惑を断尽すれば、無間断の解脱を証得するなり。
所謂る無間断の解脱とは、身心が刹那毎に解脱し、各法の上に於いて解脱し、何時如何なる時も解脱せるを謂う。此の解脱は意識単独にて得る所にあらず、終に意根に由りて証得するなり。意根解脱すれば一切解脱し、意根解脱せざれば一切解脱せず。意根若し解脱せんと欲すれば、修道を深く意根に至るまで修めざるべからず。意根に至る此の深さを修むるには、必ず禅定を修めざるべからず。定無くしては意根に到達すること能わず、意根は智慧を得ること能わず、智慧無くしては解脱すること能わず。故に解脱とは定慧等持にして、意識の乾慧のみにて成し得る所にあらず。
三界は総じて九地に分たる:欲界、色界初禅天、二禅天、三禅天、四禅天、無色界空無辺処天、識無辺処天、無所有処天、非想非非想天。各地に相応する禅定の境界有り、各禅定は相応する煩悩思惑を対治す。此れ即ち修道の功德なり。而して思惑は過失なり。其の過失は禅定を以て対治され、禅定に修行の功德現わるれば、以て煩悩思惑を対治し、其の後此の功德を以て果を証す。其中には禅定より引き出される解脱の智慧証量有り、合わせて始めて解脱するなり。
九地には相応する九品の思惑有り。欲界の貪・瞋・痴は粗く下・中・上の三品に分たれ、各品更に下中上の三品に分たれ、総て九品となる:下下1、下中2、下上3;中下4、中中5、中上6;上下7、上中8、上上9。此等九種の思惑は欲界定と初禅定の中に於いて断ぜらるべし。禅定無くしては一品も断つこと能わず、初果向を得ること能わず、況んや初果を得んや。禅定の修行を飛び越ゆるは修行と称すべからず。如何なる理論知識を学ぶとも、思惑を断たざれば生死の苦に抗し難く、必ず業に随って生死を漂流す。此処より見れば、禅定を修むる功德は極めて大なり。避けて通るべからざるものなり。困難を畏れ重きを避け軽きに就くは問題解決に非ず。而して禅定を修むるには戒律の厳持を離れず。戒を受けず守らざれば禅定修まらず、修道を受けず、功德無く、煩悩過失は軽減減少せず、命終には煩悩惑業に随って三悪道に流転す。
初禅天の貪・瞋・痴思惑は下・中・上の三品に分たれ、各品更に下中上の三品に分たれ、総て九品となる:下下1、下中2、下上3;中下4、中中5、中上6;上下7、上中8、上上9。同理、二禅天の貪・瞋・痴思惑も亦た然り。三禅天、四禅天、空無辺処天、識無辺処天、無所有処天、非想非非想天、各々相応する九品の思惑有り、総じて八十一种の思惑煩悩となる。
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