釈:幾つの支が縁尽きによって示されるものか。答:生・老死の三支が滅することが縁尽きによって示される。三界との縁が尽きれば、三界の有は再び現れず、生もなくなり、老死もなくなる。これら三支以外の支分は滅尽しても、三界との縁が未だ断絶せず、縁が存在し続ける。例えば十二因縁法を観じて無明を滅尽しても、三界との縁は残り、意根には行が存在する。ただし無明を滅した明行であり、六識も存在するが無明を滅した六識である。造作するのは明の身口意行であり、染汚されていない。
名色も存在するが無明のない名色であり、六入も存在するが染汚されていない。触も存在するが無明を滅した明触であり、受も存在するが無明を滅した受である。愛が存在する場合も、無明を滅した愛であり、仏法や大乗の修道を愛するに過ぎない。取も存在するが無明を滅した取であり、大乗仏法と善法に執着するに過ぎない。三界の法も存在するが三界の法に貪着せず、老死も存在するが余苦は残り、苦痛が少ないだけである。大乗菩薩辟支仏は後世にも生を受け、現世には十二の明支があり、十二無明支は存在しない。
原文:問。幾支滅是受盡所顯。答。一。謂由煩惱已斷故。所依滅時。此一切受。皆永息滅故。
釈:問:幾つの支が滅ぶことが「受尽き」によって示される支分か。答:受一支のみが滅ぶことが受尽きによって示される法である。煩惱が既に断じ尽くされたため、受の依り所となる法が滅尽した時、これら一切の受は永遠に消滅する。
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