(三十六)原文:問。幾支滅は縁尽に由って顕れるか。答。即ち此の三なり。余の支縁に由る故なり。
釈:幾つの支が縁尽によって顕れるか。答え:生・老死の三支が滅することは縁尽によって顕れる。三界との縁が尽きれば、三界の有は再び現れず、生は無くなり、老死も無くなる。此の三支を除き、其余の支分は滅尽すれども、三界との縁は未だ断絶せず、尚お縁が存在する。例へば十二因縁法を観じて無明を滅尽すれども、三界との縁は尚お残り、意根には行が存在する。ただし無明の明行を滅したに過ぎず、六識も存在するが無明の六識を滅し、明の身口意行を造作し、染汚されざるのみ。
名色も存在するが無明なき名色なり、六入も存在するが染汚されざるなり。触も存在するが無明の明触を滅したに過ぎず、受も存在するが無明の受を滅したのみ。或は愛も存在するが無明の愛を滅し、仏法と大乗修道を愛するのみ。取も存在するが無明の取を滅し、大乗仏法と善法に取着するのみ。三界法も存在するが三界法に貪着せざるのみ。老死も存在するが余苦有り、多く苦痛無きのみ。大乗菩薩辟支仏は後世に尚お生有り、現世に十二明支有り、十二無明支無し。
原文:問。幾支滅は受尽に由って顕れるか。答。一なり。謂く、煩悩已に断ぜられたる故に、所依の滅する時に、此の一切の受は皆永く息滅するが故なり。
釈:問:幾つの支が滅することは受尽によって顕れるか。答え:ただ受一支が滅することこそ受尽によって顕れる法なり。煩悩が既に断尽せられたる故に、受の依止する法が悉く滅尽すれば、此の一切の受は永劫に熄滅するなり。
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