現代の仏教界には、理論知識のみを重視する弊害が生じています。多くの理論を学べば学ぶほど良いと考え、学識が豊富であれば素晴らしく誇らしいと感じ、数多くの文章や書籍を執筆できればさらに優れていると自負する傾向があります。しかし、これらの理論知識が自身の身口意の行いを指導し規範できるかどうか、七識の心行を転換できるかどうか、内面的に心を清浄にし無明を減少させられるかどうか、真実の利益を得られるかどうかについては一切顧みず、美辞麗句を並べて「菩薩は煩悩を気にせず、正しい見解があれば自然に煩悩が断たれる」と主張しています。しかし現実はそうではなく、単に理論知識や意識的な見解を持つだけでは、煩悩に対して永遠に無力です。臨終時の来世の行先は貪瞋痴の煩悩によって決定され、貪瞋痴が造った業行によって決まるのであって、理論知識や仏法上の見解によって決まるものではありません。従ってこれは極めて重大な問題であり、全ての仏教徒が重視すべきことで、軽視してはなりません。
理論と見解は、料理のレシピのようなものです。何冊もの料理本を学んでも、実際に台所で調理した経験が一度もなく、食材の選別や組み合わせさえしたことがなければ、身に付けた料理の知識や見解が空腹の問題を解決できるでしょうか?貴重な時間と精力を費やして研究に研究を重ね、その後著作を著して多くの弟子を集め、名声を博しながらも、実際には飢えに苦しみ、見かけだけの存在に過ぎません。例えるなら、子供が小学校から大学院まで、博士号取得後もポストドクターに至るまで、ずっと理論的な知識だけを学び続け、大学以上では多少の科学研究や実験を行う場合がありますが、大学生以前に学ぶのは全て知識です。知識だけでは直接生産工程に応用できず、実習と実践の段階を経て初めて知識は生産力に転換されます。
仏法の学習も同様に五蘊の世間生活に応用する必要があります。これには絶え間なく戒律を守り禅定を修め、深甚な禅定の中で努力して参究し、自身の五蘊と結び付け、身口意の行いと関連付け、理論を実践に移し、努力して自ら実証することで無明を破り、実智を増長させ、身心を改造転換させなければなりません。こうして初めて修行は成就し、真実の利益を得る正道と言えるのです。
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