衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年02月16日    火曜日     第1 回の開示 合計3102回の開示

理論的研究は修行の正途に非ず

現代の仏教界には、理論的知識のみを重視する弊害が生じております。理論を学べば学ぶほど良いと考え、学識が豊富であれば素晴らしく誇らしいと感じ、数多くの文章や書籍を執筆できれば更に優れて誇らしいと感じる傾向がございます。しかし、これらの理論的知識が自身の身口意の行いを指導し規範とできるかどうか、七識の心の働きを転換できるかどうか、内面を清浄に保ち無明を減少させられるかどうか、真実の利益を得られるかどうかについては全く顧みず、それを「菩薩は煩悩に拘る必要がなく、正しい見解があれば自然に煩悩が断たれる」と美辞麗句で正当化しております。しかし実際には、単に理論的知識や意識的な見解を持つだけでは、煩悩に対して永遠に無力であります。臨終後の来世の行先は貪瞋痴の煩悩によって決定され、貪瞋痴が造り出した業行によって定まるのであり、理論的知識や仏法上の見解によって決まるものではございません。故にこの問題は極めて重大であり、仏教徒一人一人が真剣に受け止め、軽視してはならないのであります。

理論と見解は、調理用のレシピのようなものでございます。何冊もの料理本を学んでも、実際に台所で調理した経験がなく、食材の選別や組み合わせさえ行ったことがなければ、身に付けた調理知識や見解が空腹の問題を解決できるでしょうか。貴重な時間と労力を費やして研究に研究を重ね、その後著作を著し弟子を集めて名声を博しても、飢えに耐え見掛け倒しに過ぎません。例えるなら、子供が小学校から大学、大学院、博士課程、博士後期課程までずっと理論的知識を学び、大学以上では多少の研究や実験で実証を得る場合がございますが、大学生以前に学ぶのは知識のみであります。知識はそのまま生産工程に応用できず、実習と実践の段階を経て初めて生産力に転換されるのであります。

仏法の学習もまた、五蘊の世間生活に応用されねばなりません。これには絶えず戒律を保持し禅定を修め、深甚な禅定の中で精進して参究し、自身の五蘊と結び付け、身口意の行いと関連付け、理論を実践に移し、努力して自ら実証し、無明を打破し、実智を増長し、身心を改造転換する必要がございます。このような修行こそが成就と呼べるものであり、真実の利益をもたらし、正しい道なのであります。

——生如法師の開示
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