円覚経において仏陀は、修行を教えられました。一切の三昧を成就するには全て定慧等持と止観双運の修行によるもので、定なき乾慧もなく、慧なき邪定もありません。このようにして成就されるものが定慧等持の三昧であり、この三昧の力によって絶えず世間の一切法を幻化できるのです。仏には仏の三昧力があり、菩薩には菩薩に相応した様々な三昧力があります。諸仏菩薩は様々な三昧力によって一切の法を変化成就させるのです。例えば、種々の仏国土を現じ出すには三昧力によるものであり、大千世界を成就するのも三昧力によるものであり、種々の神通力を示現するのも三昧力によるものです。諸仏菩薩のすべての神通は三昧力によるものなのです。
三昧力は定から離れず、慧からも離れません。例えば八地の菩薩が神通を示現して四大海水を腹中に吸い込む場合、四大海水は極めて広大で際限がないのに、私たちの地球は四大海水の上に小さな球のようであり、魚やエビ、龍や蟹が全て菩薩の腹中に吸い込まれても何も気付きません。また八地の菩薩が一方の手で衆生を支え、もう一方の手で地球を掲げる時、地球の衆生は地球から離れてもそれを知らず、まだ地球上にいると思い込みます。あるいは衆生を遥か遠い他の星に送っても、衆生は何も気付きません。菩薩はこのような甚深で不可思議な三昧力、智慧と禅定によって衆生を教化し利益するのです。
私たちが世間の飲食娯楽や財色名利を追求し、一生をかけても得られるかどうかに拘わらず、そもそも全く面白くありません。諸仏菩薩がどれほど自在に神通を発揮し、飲食を思うままに百味、千味、億味と変化させ、飢えた衆生に供養しながら自らは飲食を必要としない様子を見てください。私たちが終日心身を飲食や排泄に費やすのは全く無意味であり、このような生活は蟻と変わらず、それに溺れて抜け出せないのは智慧が足りない証です。この時間と精力を全て修行に注げば、様々な三昧を成就してどれほど自在で解脱できるでしょうか。
もし八地の菩薩になれば、あらゆる面での才能と成就がほぼ世界一となり、財宝の豊かさは言葉では表せません。既に財宝を必要としないが故に、財宝は限りなく増え続け、全て衆生を利益し教化するために用いられます。この対比から明らかなように、私たちの視野は極めて狭く、眼前の一点しか見えず、少し先や広い世界は全く分かりません。私たちの目は必ず遠く遠くを見据え、一生半生や眼前の数年だけに捉われず、もっと先まで考慮すべきです。
これが福徳の問題です。福徳が深刻に欠如しているため、緑豆のような短い目先しか持てないのです。高く立てば遠くまで見渡せ、遠くを見れば心の器量も大きくなり、進む道も速く直接的になります。目標が明確であれば眼前の風景に拘束されず、もし眼前の風景に未練があれば後の道が進めなくなります。遠行する時、道端の風景に未練を残さず、勇敢に大股で前進すべきです。もし楽しみや風景の鑑賞に耽れば、道を通り過ごせなくなります。楽しみに執着して風景に耽ると道程が遅れ、来世で人間として享受すべきものも得られなくなります。天界に昇ってから天界のものを享受すれば、他の仏土のものは享受できません。だから眼前の風景がどれほど良くても、あなたの歩みに影響させず、止まらず、最高の目標に向かって一心に前進すれば、障害は除かれるでしょう。
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