一切の法に作り出すものもなく、受ける者もなし
業行に作り手なし。では受けるべき業報に受ける者はあるか。作り手なきところに受ける者なし。五蘊は仮合の体にして主体なきが故に、誰が報いを受けるというのか。我とて苦楽を受けるにあらず、身体も苦を受けず、識心も苦を受けず、身心ともに虚妄なり。苦報そのものもまた幻なり。よって一切の法に真実の作者も受者もなし。単独の法を以て人と称すべからず、諸法和合の相もまた人にあらず、皆仮体なり。故に一切の法の造作に作者もなく受者もなし。これを真に証得するは悟りを開くのみならず、初地菩薩の境涯に至るというべきなり。
一切の法に真実の相貌なきは、皆幻化の所成なり。即ち一切の法はただ名と相の虚妄分別に過ぎぬと言えよう。例えば一物に名を付けてこれを表せば、呼称せずんばあらず。四本足の物を椅子と名付け、椅子と聞けば心に椅子の相貌現る。名と相現れて初めて椅子を分別顕示し、衆生の交流と使用に便す。四大仮合の肉体を色身と名付け、人々は言葉を以て色身の状態を表し、識別と交流を容易にす。色身に具わる諸識を眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識と名付け、主たる識を末那識と名付く。ここに初めてこれらの識心の機能作用と状態を闡明し、我等は表現と表示と溝通とをなすべし。名と相なきにおいては交流も生活も成り難く、仮名を付するにて事足る。当初もし毛巾を被単と名付けば、顔を拭わん時に子に「被單を持ち来たりて顔を拭え」と言わん。習慣として定着すれば、当初の名称は何とでもよきなり。皆名詞・名相たるに過ぎず、実質的意義多からず。
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