(二十六)原文:無明を縁として行が生じる道理と同じく、このように愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じる道理もまた同様であると知るべきである。行を縁として識が生じる道理と同じく、有を縁として生が生じることも同様である。識を縁として名色が生じる道理と同じく、生を縁として老死が生じることも同様であると知るべきである。
釈:無明が縁となって行が生じる道理と同様に、愛が縁となって取が生じ、取が縁となって有が生じる道理もまた同じであると理解すべきである。行が縁となって識が生じる道理と同じく、有が縁となって生が生じることも同様であり、識が縁となって名色が生じる道理と同じく、生が縁となって老死が生じることも同様である。
同じ道理をもって次の支分をこのように思惟すべきである:どのような名色が存在しなければ六入は存在せず、どのような名色が滅すれば六入は滅するか。どのような六入が存在しなければ触は存在せず、どのような六入が滅すれば触は滅するか。どのような触が存在しなければ受は存在せず、どのような触が滅すれば受は滅するか。どのような愛が存在しなければ取は存在せず、どのような愛が滅すれば取は滅するか。どのような取が存在しなければ有は存在せず、どのような取が滅すれば有は滅するか。どのような有が存在しなければ生は存在せず、どのような有が滅すれば生は滅するか。どのような生が存在しなければ老死は存在せず、どのような生が滅すれば老死は滅するか。これらの問題は全て禅定の中で細心に思惟し観行すべきである。
原文:問う。どのような受が存在しなければ愛は存在しないか。どのような受が滅すれば愛は滅するか。答える。行を縁として識が生じる道理と同じく、これも同様であると知るべきである。
釈:問:どのような受が存在しないが故に愛が存在せず、どのような受が滅したが故に愛が滅するのか。答:行が縁となって識が生じる道理と同じである。三種の受が運行している中で、運行が終われば滅する。もし受に対する対治法がなければ、受は絶えず運行し続ける。受が存在するが故に、愛はそれに従って現れる。もし受が滅し、もはや何ものをも感受しなければ、法に対する愛も再び生じることはない。もし全ての受が滅すれば、愛は全て滅尽するのである。
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