仏は一音をもって法を説きたまう、衆生は類に随って各々解を得る
夜眠りに就いて夢なき時、眼耳鼻舌身意の六識は皆滅する。滅した後どこへ往くか。目覚めの時、これらの識心は再び現前するが、現前する時はどこより来るか。『楞厳経』において世尊は一切法は如来蔵性なりと説きたまう。この父子合集経には如来蔵について説かれていないが、もし如来蔵性を説くならば、聴く者の中には即座に悟りを開く者もあろう。如来蔵性を説かずとも衆生をして阿羅漢の空の果を証得せしめる。皆衆生を利益するのである。仏の説きたもう経典には、人をして果を証せしめるものもあれば、悟りを開かしめるものもある。これは衆生の根器による。小乗根性の者は小乗の空を悟るのみであるが、大乗根性の者は大乗の空性如来蔵を悟ると同時に、小乗の空をも悟る。根器が異なれば悟道の程度も異なり、法を聞く当人の智慧の程度による。
仏が説法された時、八万四千人の人々が法を聴きますが、智慧が異なれば理解の程度も異なり、証する果位も異なり、得る果報も異なります。仏の説法に分別心はなく、全ての衆生に同じ法を説きたまう。衆生の根基が異なる故に、得る果も異なる。大悪業を造った者は悪業に遮障され、得る果はただ無根信の一種に過ぎない。悪業の遮障なき者は小乗の阿羅漢果を証し、根性鋭き者は大乗の菩薩果を証する。更に根性優れたる者は無生法忍を証得し、何地の菩薩の果を得る。故に仏は一音をもって法を説きたまい、衆生は類に随って各々解を得る。同じ法を聴きながら理解し証得する程度は、各衆生各自の事柄であって、仏に偏り心はないのである。
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