福は有漏の福と無漏の福に分けられる。有漏の福は解脱の彼岸に至ることはできず、無漏の福こそが修行者を解脱の彼岸へ導く。世間法を求めて修める福は有漏の福であり、世間的な功利心を伴って修める福は有漏の福である。自我の心をもって修める福は有漏の福であり、世俗的な報いを得ようとして修める福も有漏の福である。無漏の福とは、求めず得ようとしない心で修める福であり、功利心のない福であり、自我や世間的報いを目的とせずに修める福である。
有漏の福は尽きるものであり、世俗法の中で享受すれば消滅するため、継続的に福を修めなければならない。無漏の福は尽きることがなく、一旦修めれば成仏の時まで保持される。これは無漏の福が功徳と結びついており、功徳が失われなければ福も失われないからである。有漏の福は世間の煩悩と相応し、無漏の福は成仏して衆生を救う清浄な大願と相応する。願いが大きければ大きいほど、福も大きくなり、願いを発するだけで福が生じる。有漏の福は我見と我執を強化するが、無漏の福は逆に修行者が我見を断ち、証量と智慧を高める支えとなる。
仏道を学び始めた者は皆、有漏の善と有漏の福から修め始める。心が次第に空(くう)になり、無為となり、求めない境地に至るにつれ、功徳が自然に成就し、最終的に無漏の善と無漏の福を修めるに至る。これが修行の過程である。仏法を学ぶ初期段階ではまず有漏の善と福を修めなければならない。衆生の心に悪不善の法がある限り、善法をもって対治する必要があるからである。ある程度修めると、心が空と相応し、心中の悪不善法が消滅する。この段階に至れば善法に執着する必要はなく、善法に心を留めれば空ではなくなり、道と相応しなくなる。
我々は現在、四正勤を精進する段階にあり、悪を断ち善を修めることに努めている。悪を完全に断じた後は、善も特に修める必要がなく、心中に善悪を留めないことが真の無漏である。四正勤とは、未だ生じていない善を生じさせ、已に生じた善を増長させ、未だ生じていない悪を生じさせず、已に生じた悪を断じるものである。この段階は誰もが経なければならず、修行が精進であればあるほど四正勤を速やかに修め、無漏を証得することができる。
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