業行が滅した後、どこへ行くのでしょうか?
業行が造作された後、刹那に滅していきます。例えば私たちが話す時、次々と音声が現れては消え、一文字が現れては滅し、次の文字が現れてはまた滅します。これが行為の造作です。このような行為の造作は生起した瞬間に滅し、滅してはまた生じ、刹那刹那に生滅を繰り返します。業は滅したとはいえ、業行は種子として阿頼耶識に蓄えられます。一つの言葉が発せられる時、無量の識種子が生滅を繰り返し、この刹那の言語行為造作を完成させるのです。一つの識種子の流れが途絶えれば、言語は発せられません。よって言語という法は仮の法であり、真実の法ではないのです。
業行が滅した後、どこへ行くのでしょうか。留まるべき処所は存在せず、阿頼耶識にもこれらの業行は存在しません。阿頼耶識は形相なく、形ある身口意の行いを宿さず、ただ形相なき種子を収蔵するからです。全ての業行には行く先も来処もありません。私たちが話す時、最初の音声はどこから現れるのでしょうか。音声を蓄える場所があるでしょうか。決して存在しません。もし存在するなら、私たちが一生、あるいは無始劫以来発してきた音声はどこに存在するのでしょうか。探してみても、根本的に見出すことはできないのです。
音声をテープレコーダーに録音し、業行をビデオカメラに記録すれば、行為造作には存在する処所ができると言う人もいます。もしそうなら、テープレコーダーやビデオカメラを分解して探せば、音声や行為造作がどこにあるか分かるはずですが、探し回っても音声や影像は見つかりません。しかし行為造作の全過程、すなわち意業を含む全てには、あたかもテープレコーダーやビデオカメラのように記録するものがあります。これが阿頼耶識です。記録された後、種子として存在し、宿命通を得た者はいつでもこれを呼び出して観ることができます。ちょうどテレビを点けて視聴するように。如来蔵というこのテレビには、無始劫以来の番組がすべて失われることなく収蔵されており、宿命通を得た者は、業種が実現したかどうか、果報を受け終わったかどうかにかかわらず、すべてを再生することができるのです。
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