衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年01月15日    金曜日     第2 回の開示 合計3002回の開示

昔の祖師方や大徳たちは、なぜ説法において経典を引用することが少なかったのか

問:なぜ過去の祖師大徳方は経典を引用せずに説法されたのでしょうか。

答:過去の祖師大徳方は真の修行と証得、徳行を備えた悟りを開いた菩薩方であられたため、説法の際には自らの智慧と見識のみを述べ、深い解釈を求めず、何ら隠すことなく、真実のままに語り、道理に従って論じられたのです。たまに経典を引用される場合、一つには因縁が熟さず信根と智慧が不足する者への配慮、二つには法義が深遠な際に仏典を補助説明として用いられたためです。

別の面から申せば、昔の修行者は善根が厚く、福徳・禅定・智慧に優れ、信根が充足し、法を択ぶ目を持ち、祖師の教えに対して正しい判断力と信受力を備えていました。そのため祖師菩薩方は安心して自らの智慧と証量による知見を説くことができ、後顧の憂いがなかったのです。現代の衆生は善根が浅薄で、福徳・禅定・智慧に欠け、信根が不足し、法を択ぶ目を失い、多くの者が騙す言葉には耳を傾けるが忠告には従わないため、説法には経典を多く引用して信を起こさせる必要があります。また説法者が修行の時劫が短く、真実の智慧と証量がなく、法義が未だ通達していない場合、経典を引用せざるを得ません。たとえ経典を引用しても、一には衆生が真実のままに理解できず、二には説法者も経典を貫通していないため、依然として誤解や行き違いが免れないのです。これは衆生の業力が招くところであり、業が重く福が薄いため、修行の道程は曲折し、進退を繰り返し、いつ終着するかわからない状態なのです。

——生如法師の開示
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