(四)原文:身行とは何か。これを身業という。欲界にあれども色界にあれども、下界においては福業・非福業と称し、上界においては不動と名づく。語行とは何か。これを語業という。その他の解釈は前文に準じて知るべし。意行とは何か。これを意業という。欲界にあっては福業・非福業と称し、上二界においては唯だ不動と名づく。
釈:身行とは、身体において造作される業行を指す。欲界の業行を造作することもあれば、色界の業行を造作することもある。無色界には身行を造作せず、無色界の天人には身体が存在しないためである。誰が身体に業行を造作するのか。意根が六識をして色身に業行を造作させるのである。下界である欲界においては福業と非福業を造作し、上界である色界においては不動行を造作する。色界の衆生は深甚な禅定を具え、境界に対し心が動かず、身体も指揮を受けて動かぬため、身行を造作しないのである。身体は誰の指揮を受けるのか。身体は意根の指揮を受ける。意根が心を動かさなければ、意識も動かず、身識も動かず、身体も動かない。
語行とは何か。語行とは口において造作される業行、すなわち口行を指す。下界である欲界において造作される語行を福行・非福行と称し、上界である色界では不動で造作されない。色界の天人は心清浄にして梵行を具足し、境界に対し心が動かず、口は心の指揮を受けて動かないため語行がない。無色界には語行が存在せず、身体も口もないためである。意行とは何か。ここでいう意行とは意識が造作する業行を指す。意識が欲界においては福行・非福行を造作し、上界である色界・無色界においては不動行を造作する。意根が心清浄で動かなければ、意識も清浄で動かず、意識は意根の指揮を受けるのである。
原文:眼識とは何か。当来に眼根を依止し、色境を了別する識をいう。すべての福・非福・不動行によって薫発された種子識、及びその種子より生じた果報識を包含する。眼識がこの如くであるように、乃至意識に至るまで、また同様であると知るべし。依止する所及び境界によって生じた了別の差別によって、これが欲界において六種を具足し、色界においては唯だ四種、無色界においては唯一であることを知るべし。受蘊とは何か。一切の領納の種類をいう。想蘊とは何か。一切の了像の種類をいう。行蘊とは何か。一切の心所が造作する意業の種類をいう。識蘊とは何か。一切の了別の種類をいう。かくの如き諸蘊は、すべて三界に通ず。
釈:眼識とは、眼根を依り所として色境を了別する識であり、すべての福行・非福行・不動行によって薫染された種子識、及びその種子より生じた果報識を指す。眼識がこの如くであるように、意識もまた同様である。依止する第七識と六塵の境界によって生じた了別の差別により、欲界においては六種(色・声・香・味・触・法)を具足し、色界においては四種(色・声・触・法)、無色界においては唯一の定境法塵が存在する。
受蘊とは、法に対する一切の領納の種類(苦受・楽受・不苦不楽受)を指す。想蘊とは、境界の像に対する一切の了別の種類、すなわち六識の了別をいう(第七識にも了別の機能がある)。行蘊とは、一切の識心が造作する思業の種類、即ち六識の思心所をいう(第七識にも思心所があり、行を有する)。識蘊とは、境界法に対する了別の種類、即ち六識の了別を指す(第七識も了別を有する)。これらの受蘊・想蘊・行蘊・識蘊はすべて三界に通じ、欲界・色界・無色界のいずれにも存在する。三界にはいずれも意識と第七識が存在し、両識ともに受・想・行・識の機能作用を有するためである。
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