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日常法話

2021年01月09日    土曜日     第1開示 合計2981開示

瑜伽師地論巻第九(十二因縁)

(四)原文:身行云何。谓身业。若欲界若色界。在下名福非福。在上名不动。语行云何。谓语业。余如前应知。意行云何。谓意业。若在欲界。名福非福。在上二界。唯名不动。

釈:身行とは何か。身行とは身体上に造作される業行のことであり、欲界の業行を造作する場合もあれば、色界の業行を造作する場合もある。無色界では身行を造作しない。なぜなら無色界の天人には身体がないからである。身体上に業行を造作するのは誰か。意根が六識をして色身の上に業行を造作させるのである。下界の欲界において造作されるのは福業と非福業であり、上界の色界において造作されるのは不動行である。なぜなら色界の衆生は甚深の禅定を具えており、心が境界において動かないので、身体も指揮を受けて動かず、身行を造作しないからである。身体は誰の指揮を受けるのか。身体は意根の指揮を受け、意根が心を動かさなければ、意識も動かず、身識も動かず、身体も動かない。

語行とは何か。語行とは口の上に造作される業行のことであり、すなわち口行である。下界の欲界において造作される語行は福行と非福行と呼ばれ、上界の色界では動かず造作しない。なぜなら色界の天人は心が清浄で、梵行を具足し、境界において心が動かず、口は心の指揮を受けるので、口が動かず語行がないからである。無色界には語行がない。なぜなら身体も口もないからである。意行とは何か。ここでいう意行とは意識が造作する業行を指す。意識が欲界において造作するのは福行と非福行であり、上界の色界と無色界において造作するのは不動行である。なぜなら意根の心が清浄で動かないので、意識も清浄で動かず、意識は意根の指揮を受けるからである。

原文:眼识云何。谓于当来依止眼根。了别色境识。所有福非福不动行所熏发种子识。及彼种子所生果识。如眼识如是。乃至意识。应知亦尔。由所依及境界所起了别差别。应知此于欲界具足六种。色界唯四。无色界唯一。受蕴云何。谓一切领纳种类。想蕴云何。谓一切了像种类。行蕴云何。谓一切心所造作意业种类。识蕴云何。谓一切了别种类。如是诸蕴。皆通三界。

釈:眼識とは何か。眼識とは眼根に依止して色境を了別する識であり、すべての福行・非福行・不動行によって熏発された種子識、およびその種子から生じた果報識である。眼識がこのようであるように、意識もまた同様であり、依るところの第七識と六塵の境界によって生起した了別の差別がある。欲界においては六種(色・声・香・味・触・法)を具足し、色界では四種(色・声・触・法)のみであり、無色界では一種(定境の法塵)のみである。

受蘊とは何か。受蘊とは法に対する一切の領納の種類であり、苦受・楽受・不苦不楽受である。想蘊とは何か。想蘊とは境界の像に対する一切の了別の種類、すなわち六識の了別であり、もちろん第七識にも了別の機能がある。行蘊とは何か。行蘊とは一切の識心が造作した思想業の種類であり、すなわち六識の思心所であり、もちろん第七識にも思心所があり、行もある。識蘊とは何か。識蘊とは境界の法に対する了別の種類であり、すなわち六識の了別であり、第七識にも了別がある。これらの受蘊・想蘊・行蘊・識蘊はすべて三界に通じており、三界のいずれにも存在する。なぜなら欲界・色界・無色界のいずれにも意識があり、第七識もあり、この二つの識はともに受・想・行・識の機能作用を具えているからである。

——生如法師の開示
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