衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年12月03日    月曜日     第3開示 合計1068開示

波羅蜜とは何か

生死の流れに順ずる者は凡夫、生死の流れに逆らう者は阿羅漢、順じず逆らわずの者は菩薩、彼岸に到る者は仏です。生死の流れに対して、菩薩の態度は、順じず逆らわずということです。なぜなら、生死の流れに順ずれば、菩薩は流転して苦しみ、自らを度することもできず、どうして他を度することができましょうか。生死の流れに逆らえば、生死を捨てなければならず、阿羅漢のように無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入ることになります。そうなれば色身五陰 (pañca-skandha) はなくなり、自らが引き続き修学して仏道を成就することもできず、広く衆生を度することもできず、それは自分の誓願に背くことになります。それゆえ菩薩は生死に対して、逆らわず順じません。

私たちが仏法を学び修行する目的は成仏のためであり、仏は大智慧の成就者です。それゆえ私たちの修行の究極の目標は大智慧を獲得することであり、智慧によって解脱し、智慧によって成仏することであり、すべての方法手段は智慧を獲得するためのものです。智慧があれば無明はなく、無明があれば智慧はなく、無明を破って智慧を得ます。それならば、私たちが布施 (dāna) 波羅蜜を修めば、智慧を獲得し、彼岸に到ることができます。持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜も、いずれも智慧を獲得し、彼岸に到り、究竟の解脱を得ることができます。

波羅蜜とは彼岸に到ること、生死の此岸から脱するという意味です。私たちの本覚心には無明がなく、生死がなく、生死のこの岸に在らず、また在らないのでもありません。神様は生死のないその岸にあり、またその岸に在らないのでもなく、その岸は有るのでもなく、これこそ本覚の中道性です。私たちが修行によってすべての無明を破除し、究竟智を獲得すれば、本覚に相応し、やはり生死がなく、生死がないのでもなく、すなわち仏地の解脱色があるのです。涅槃に在りながら、涅槃に入らず、これが仏地の無住処涅槃であり、在在処処において自在ならざることなく、解脱ならざることはありません。もし私たちの修行方法が智慧を獲得できず、解脱を得られないならば、真実の受用はありません。そのとき私たちは改めて考え、正しい修行方法を選択して、より速く仏地へ向かい、究竟智を獲得する利益とすべきです。

——生如法師の開示
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