衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年12月03日    月曜日     第2 回の開示 合計1067回の開示

心と言葉が一致しない時、口で言うことと心で思うことはそれぞれどの識に対応するのか

日常生活において、私たちはよく口と心が一致しない状況に遭遇します。例えば内心で某甲に瞋恚を抱きながら、表に現れる口業や身業は慈悲と慈愛に満ち、内心の本心を隠しているような場合です。ではこの内心の本心は意識の心行か、それとも意根の心行なのでしょうか。私たち凡夫がこの状況を内観できるのは意識に属し、真実の内心が意根に相応するのは意根に属すべきです。しかし意根は主導的な識であり、表に現れる口業身業は六識が意根に随順した結果であるなら、この慈悲と慈愛も意根の心行であるべきです。ところが私たちが内観する所謂内心の本心、すなわち某甲への瞋恚は、慈悲と慈愛として表現され、内心の真実の想いではありません。問題は一体どこにあるのでしょうか。

意識と意根の心行が一致しない時、意識の力が強く意根を圧倒すると、意根は意識の思惑に従わざるを得ず、意識が自らの想いのままに語り自己を表現することを許容します。しかし意根は事を行う際、依然として自らの本意に従うため、意識の行為はあくまで自己を代表するのみで、意根を代表しません。意根の意思ではないものが虚偽を作り心口不一となるのは、世俗で言う「心に触れずに語る」状態、つまり意識が意根の本意に従わずに発言することを指します。この時、内心は明らかに瞋恚であるにも関わらず、意識は瞋恚の心理を表に現したくないのです。他人に知られれば自らが徳のない者と思われるため、意識は自らに徳があることを示すため、他者への慈悲と慈愛を装い、他人から良い印象と評価を得ようとするのです。

偽装する時、それは完全に意識の仮面です。意識は策略や奸計を巡らせ、意根に強制的に同意させます。意根は主意なき状況下で、意識の安排に従います。一旦意識が警戒を緩め意根を監視しなくなると、意根は自らの真実の想いのままに行動し、本性を現します。意識の偽装なき心行こそが、各人が真に備える徳行と修養であり、この時こそ意根に修行があるか否かが明らかになるのです。

意識は意根に対し一定の作用を及ぼします。意識の主意と思惑が意根の心行に順ずれば、意根は完全に同意し、極めて迅速に決定を下し躊躇いません。意識が意根の心行に順じない場合、意根は熟考し検討を重ねた上で決定します。意識の分析力が特に優れ説得力に富む場合、意根はあまり賛成でなくとも渋々同意します。意根の立場が極めて堅固であれば、意識は意根を従わせ同意させることはできません。意根が非常に頑固であれば、意識も意根を説得できないのです。

もし意根が意識の制御を受けず、完全に自らの心行に従って行動するなら、この人物は豪放で天真爛漫、淳朴かつ我が儘で頑固、全て自らの本性を表します。良きは良き、悪しきは悪しきと、個性が極めて強いのです。意識による調節があれば、意根は完全に本性を表すことができず、程度の差はあれ偽装を要します。特に利害関係者の面前では、必ず偽装しなければなりません。これは意根が未だ充分に良くないため、偽装が必要であり、気にかける人や事があれば、率直に振る舞えないのです。

一個人の本性が虚言癖があり嘘に満ちているなら、意根の本質が甚だ劣悪であることを示します。意識が調節を加えなければ永遠に改まらず、意根に嘘の習慣がなく虚言を好まない場合、時に意識が故意に嘘をつき事実を隠蔽するなら、これは偽装であり、意識が意根を邪導しているのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

菩薩の心行は、衆生には推し量ることができません

次の記事 次の記事

波羅蜜とは何でしょうか

ページのトップへ戻る