(二)原文:阿難よ。楽受は実に無常にして有為なるもの。縁起の法なり。滅尽の法なり。壊敗の法なり。離欲の法なり。滅する法なり。阿難よ。苦受もまた実に無常にして有為なるもの。縁起の法なり。滅尽の法なり。壊敗の法なり。離欲の法なり。滅する法なり。阿難よ。不苦不楽受もまた実に無常にして有為なる法なり。縁起の法なり。滅尽の法なり。壊敗の法なり。離欲の法なり。滅する法なり。
釈:仏は説きたまう、阿難よ、楽受は確かに無常なる有為法であり、種々の因縁によって生起する法であり、滅尽すべき法であり、壊れる法であり、この受への貪欲を離れるべき法であり、滅びゆく法である。阿難よ、苦受もまた確かに無常なる有為法であり、因縁によって起こる法であり、滅尽すべき法であり、壊れる法であり、欲を離れるべき法であり、滅びゆく法である。阿難よ、不苦不楽受もまた確かに無常なる有為法であり、因縁によって生起する法であり、滅尽すべき法であり、壊れる法であり、この受への貪欲を離れるべき法であり、滅び去る法である。
原文:楽受を領納するに、なお思惟して、これ我の我なりとすれば、彼はまた楽受の滅に依って、実に思惟すべからず。我の我の滅を。苦受を領納するに、なお思惟して、これ我の我なりとすれば、彼はまた苦受の滅に依って、実に思惟すべからず。我の我の滅を。不苦不楽受を領納するに、なお思惟して、これ我の我なりとすれば、彼はまた不苦不楽受の滅に依って、実に思惟すべからず。我の我の滅を。
釈:楽受を感受する際に、なおこの感受するものが我であると考えるならば、楽受が滅した時、確かに再び感受する我が滅したと考えることはできない。苦受を感受する際に、なおこの感受するものが我であると考えるならば、苦受が滅した時、確かに感受する我が滅したと考えることはできない。不苦不楽受を感受する際に、なおこの感受するものが我であると考えるならば、不苦不楽受が滅した時、確かに感受する我が滅したと観察思惟することはできない。
原文:かくの如くに言う、受は我の我なりと。現見の法において、我は無常なりと観察すべきなり。楽苦は皆消滅する生滅法に帰す。阿難よ。是の故にこれに依って、受は我の我なりと観察すること不可能なり。阿難よ。ここにまた言う、受は実に我の我にあらず。感受する者を得ず、即ち我の我なりと。彼に応じてかくの如く言うべし。友よ、一切の所受なき所において、その所に、なお我ありと思惟し得るか。世尊、実に然らず。阿難よ。是の故にこれに依って、受は実に我の我にあらず、感受する者を得ざるもの、即ち我の我なりと観察すること不可能なり。
釈:受が我であるとする説に対しては、現前に触れる法において、この我が無常であることを観察すべきであり、楽受苦受は全て消滅する生滅法に帰する。阿難よ、従って受が無常なる生滅の現象であることを根拠に、受を我と観察することは不可能である。阿難よ、ここでさらに言う、受は確かに我ではなく、受以外の想行識こそ我であるとする者に対し、次のように問うべきである:善き友よ、一切の感受なき所、即ち色・想・行・識の所において、なお我ありと考えることがあろうか。阿難は答えて言う:まことにそのような考えはあるべきではない。仏は説きたまう:阿難よ、従ってこのような説に依って、受が確かに我ではなく、受以外の色想行識が我であると観察することは不可能である。
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