いわゆる実修とは、もし禅定の修行を含まないのであれば、禅定を修めずして、いかにして実があろうか。禅定がない状況、あるいは定が非常に浅い状況においては、慧を得ることは可能であるが、この種の慧はただ理解次元の慧に過ぎず、実証的な智慧を得ることは不可能である。理解次元の慧は、ただ意識心が法を理解する次元に留まり、禅宗では情思意解、意識の卜度と呼び、その究竟の義が何であるか、なぜそうなるかを知らず証さず、ただ結果のみを知り、証明の過程を有しない。
そして実証とはまさに証明過程であり、導き出された結論が既定の答えに符合することである。この答えは仏陀によって示されたものであり、証明過程は各人が実修観行する過程である。禅定がなければ、いかにして観行できようか。いかにして智慧を生じさせようか。解脱は智慧にあり、成仏は智慧にあると言えども、禅定がなければ、いかにして真の智慧を生じさせることができようか。ある修行者は、最後の慧のみを求め、定を求めず、食事において最後の一枚の餅だけに興味を持ち、前の餅を食べようとしない。禅定なき慧は、あたかも最後の一枚の餅のごとく、食を説いても腹は満たされず、空腹のまま高論を吐くに等しい。
智慧不足の者は往々にして他人の高論を好み、他人の高調を好むが、その腹中に真の貨があるかどうかを弁別できない。このような状態は自らの道業を誤らせやすく、全ての法を理解することがすなわち証得したと思い込み、智慧を得たと錯覚し、解脱を得たと考えるが、実際にはまだ程遠いのである。
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