問:瞋心が生じた時、意根は意識と同時に瞋るのか、それとも意識のみが瞋るのか?その時意根は何をしているのでしょうか?なぜ意識がすでに瞋心を引き起こす事柄を正見で理解したにもかかわらず、心にはまだ苦悶や痛みがあるのか。それは意根が依然としてその事に執着しているからか?それとも意根は関与していないのか?事柄の道理を意識がすぐに理解しても、意根が理解するまで心の苦悶が消えず、意根が理解して初めて心が解放され快適になる。この苦悶が消えるのが遅いのは、意根が意識のように迅速に道理を理解できないからか?
答:意識のすべての心行造作は、何によって生じるのでしょうか。意識は何によって生まれるのかを考えてみましょう。それは意根が法塵に触れた後、如来蔵が生み出すのです。法塵とは何か?それは意根が触れる「怒るに値する内容」です。意根が怒るに値する法塵に触れ、発作を起こそうとし、思心所が決定すると、如来蔵は意識を生じさせ、意根の心思を満たします。こうして意識は瞋りを生じて発作を起こすのです。意根が造作を望む時、必ず意識に助けを求めるのは、意根には特定の法において造作する手段がないため、意識の助力が必要だからです。この時意識が初めて生じ、意識は意根の代弁者であり道具となり、意根の心声を代弁するのです。
では意識の怒りという法はどのように生じるのでしょうか。意根が怒りを発散させたい、怒りの態度を表したいと思い、如来蔵が協調して意識を生じさせ、意識を通じて意根の怒りを表現するのです。意識が生じた後、怒りの心行が起こります。
意根の瞋りは真の怒りであり、意識の怒りは偽りの怒りです。意根の真の怒りには様々な表現があります。顔の表情における紅潮、言語造作における悪口、身体姿勢における膨れっ面や暴力行為など、これらは全て意識と身識が共同で造作したもので、意根の心行に順応して造作され、完全に意根の心行を表現しています。一方、意識単独の怒りは、意識が境界を了別する際に「少々気に入らない」と感じても、意根が無関心で平静である場合、この種の怒りは力がなく、深刻な造作もなく、見せ掛けだけのものです。
しかし怒りの後の両者の反応には違いがあり、覚悟の度合いが異なります。意識は直ちに自己を観察し、これらの行為造作を省察し、「怒りは良くない」と考えるかもしれません。なぜ良くないかは意識が考えればすぐ分かります。意識が理解しても、意根はまだ理解していないため、依然として怒り続け、腹を立てています。意識が「怒るな」と言っても、意根は理解せず怒り続けます。時には意根が人を殴りたい衝動を抑えられず、意識が「人を殴るな」と言っても、意根は聞かず、一方で「殴るな」と言いながら手を上げて殴ります。したがって意識が道理を理解し理性があっても、必ずしも意根を制御できず、意根が発作を起こせば、意識は仕方なく協力せざるを得ず、意根という主人の指揮に従わなければなりません。
私たちの心理行為は意識層面と意根層面に分かれます。意識層面は受動的で、意根の意向に従わなければなりません。意識層面が主宰しようとするなら、必ず意根を影響させ、薫染に成功させ、その後意根が主宰的に決定し、意識の考えに順応させなければなりません。もし意識の薫染が成功しなければ、意根は依然として自らの心行に従って発作を起こし、意識がどれだけ諭しても効果がなく、「怒るな」と言っても怒り続け、「するな」と言っても強行します。そうなると意識は仕方なく従うしかありません。言動が一致しないのは、意根が意識の意見に耳を貸さず、我を張り、意識の言う通りにせず、心行が一致しないからです。
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