(五)原文:仏は須深に告げたまわく、かくの如く知り、かくの如く見る者は、欲を離れ、悪しき不善の法を離れ、乃至身をもって証し、具足して住するや。須深仏に白して曰く、否なり、世尊よ。仏須深に告げたまわく、是を法住を先に知り、後に涅槃を知ると名づく。彼の善男子らは独り静処にありて、専精思惟し、放逸なく住し、我見を離れ、諸漏を起こさず、心善く解脱す。仏この経を説きおわりたまうや、尊者須深は塵を遠ざけ、垢を離れ、法眼浄きを得たり。
釈:仏は須深に問われた──このような知見を得た者は、すでに貪欲や不善の法を離れ、身をもって証し、完全に法の中に安住できようか。須深は答えて「否」と。仏は「これが法住を先に知り涅槃を後に知る理である。善男子らは静寂の中で観行を深め、我見を断じ、煩悩の漏れを滅して解脱する」と説かれた。経典を説き終えると、須深は五蘊の塵境を超越し、法眼を清浄にした。
この経文は、単に知見を得るだけでは解脱できないことを示す。知見は理解に過ぎず、禅定による観行を通じて初めて十二因縁法に安住し、我見を断じ、初禅を得て真の解脱に至る。須深が法を聞いて即座に証果したのは、仏の威徳力による加持と、彼自身が禅定の素養を具え、意根が専一に法義を摂受したためである。
仏の磁場と加持力なくしては、このような速疾の悟達はあり得ない。清浄なる者の場は周囲を浄化し、禅定と智慧を生じさせる。仏の傍らで法を聞く者は、因縁が熟せば仏力の加護により、観行の条件が具足し、容易に真実を証得するのである。
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