衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年11月01日    日曜日     第3 回の開示 合計2753回の開示

法に依り人に依らぬ問題

もし実証があれば、現量観行によって諸法の事実真相に依拠し、いかなる個人にも頼らない。ただ事実真相こそが真実の法であり、究竟の法である。しかしながら、事実真相は一般人が知り証することのできるものではなく、一般人は人の言説に依るほかない。しかし人の言説には欠落と不足があり、たとえ仏の言説にも表面的な意味(語)と究竟的な意味(義)が存在する。一般人がこれを明確に区別できなければ、究竟義に依ることができない。

要するに、実証があって初めて一部分の事実に依り、将来次第に全ての事実真相に依拠する方法がある。大いなる智者は必ずこのようにするもので、諸仏は全て事実真相に依拠している。特に最初の仏である威音王仏は全て実証された真理に依拠し、依るべき人がいなかった。したがって我々も何とか禅定を修め、定中の観行によって実証を目指すべきである。人に依拠することは畢竟信頼に足りず、仏は弟子たちに「汝の意は信じるに足りない」と戒められた。阿羅漢果を証して初めて汝の意を信じることができる。たとえ仏経を引用しても必ずしも正しいとは限らない。もし菩薩の論である『瑜伽師地論』が仏経と一致しない場合は、仏経を基準とすべきである。しかし仏経もまた次元が分かれており、義に依り語に依らざることは極めて困難で、実証がなければ真実義を理解しがたい。ここに仏が臨終時に説かれた四依止を思う時、当時どのような心境で語られたのか、内心どれほど憂慮されていたことか。

もし仏がどの菩薩がどのような証量を持つか印可していないならば、完全に百パーセント依止することはできず、畢竟菩薩は仏の智慧を具足しておらず、その智慧にはまだ欠落がある。たとえ弥勒菩薩でさえ、かつて仏から智慧不足を叱責されたことがある。

全ての菩薩が説く法はもちろん依止できるが、百パーセント依止することはできない。菩薩の論には必ず何らかの欠落と不足があり、法眼なき者には観察し得ない。たとえ『瑜伽師地論』であっても、弥勒菩薩本人が直接人間界に来て説いたものではなく、中間に菩薩の口を経由して転述されたものである。この菩薩の証量が極めて高くなければ、その転述にも誤りが生じうる。故に一言を十人が転述すれば、十の意味が生じる可能性がある。よって学ぶ者一人ひとりは、やはり観行に心を用いて我見を断じ、さらに明心見性を目指す方が妥当である。

——生如法師の開示
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