仏は比丘たちに告げた。「汝らはどう考えるか。もし無明を喜ばずして明が生じたなら、再びその無明を縁として、福行・非福行・無所有行を作るだろうか」
釈:仏は比丘たちに言われた。あなた方はこのことをどう考えますか。もし無明を喜ばず、心に明が生じたなら、その後も依然として意根の無明によって福行や非福行を造作したり、あるいは非福行でも非非福行でもない捨行を造作したりするでしょうか。
明と無明は対立する両面です。無明があれば明はなく、明があれば無明はありません。無明が少し減れば残りは明となり、全てが明となれば無明は消滅します。天秤の両端のように、無明が高くなれば明は低くなります。無明がなくなれば、意根は心行を起こさず、六識は身口意の行を造作しなくなり、再び胎を受けることもなくなります。名色がなければ六入はなく、六入がなければ触れず、触れなければ受けることもありません。受がなければ貪愛せず、貪愛しなければ執着せず、執着しなければ生存の条件である有がなくなり、三界の有が消滅します。有がなければ名色は生じず、老病死憂悲苦悩は全て滅び、再び現れず、生死の苦は解決されます。
このように比丘たちは三界を出離し解脱を得ますが、この解脱は未だ究竟のものではありません。一念の無明を滅した暫定的な解脱に過ぎず、極めて微細な無明が残存しているため、微細な生死の苦が未だ滅しておらず、解脱は不究竟です。仏の解脱こそが究竟の解脱です。どうすれば仏のように究竟解脱できるでしょうか。三界を出ず、大誓願を発し、大乗を修学し続け、五蘊身を保持し、自らを度し他を度し、上求下化して一切法を円満すれば、究竟の解脱を得ることができます。
1
+1