衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年10月30日    金曜日     第2開示 合計2749開示

雑阿含経(二九二)の九

(九)原文:佛告比丘。于意云何。若不乐无明而生明。复缘彼无明。作福行非福行。无所有行不。

解釈:仏は比丘たちに言われた。あなたがたはこのことをどう思うか。もし無明を好まず、明が生じたならば、その後もなお意根の無明に縁って、福行や非福行を造作し、あるいは非福行でも非非福行でもない捨行を造作することがあろうか。

明と無明は対立する二つの面であり、無明があれば明はなく、明があれば無明はない。無明が少なくなれば、残るのは明であり、すべてが明になれば、無明はなくなる。ちょうど天秤の両端のように、無明が高くなれば明は低くなり、無明があれば明はなく、明があれば無明はない。無明がなくなれば、意根は心行を持たず、六識は身口意行を造作することもなく、また胎に投じることもなく、名色も生じない。名色がなければ六入もない。六入がなければ触れず、触れなければ受もない。受がなければ貪愛に赴かず、貪愛しなければ執取しようとも思わない。執取して占有しようと思わなければ、生存の条件がなく、三界の有もなくなる。有がなければ、名色は出生せず、そうすれば老病死憂悲苦悩(śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa)はことごとく滅し、再び現れることはなく、生死の苦の問題は解決される。

こうして比丘たちは三界を出離して解脱を得る。ただしこの解脱はまだ究竟の解脱ではなく、一念無明を滅して暫時に解脱したにすぎず、きわめて多くの微細な無明がまだ滅除されておらず、したがって微細な生死の苦もまだ滅していないので、解脱は究竟ではない。仏の解脱こそが究竟の解脱である。どのようにすれば仏のように究竟の解脱を得られるのか。それは三界に出ずることなく、大いに誓願を発し、引き続き大乗を修習し、五蘊の身を保って自らを度し他を度し、上には求め下には化し、一切の法を円満させてこそ、究竟の解脱が得られるのである。

——生如法師の開示
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雑阿含経(二九二)の八

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