(八)原文:復次、比丘が苦を正しく尽くし、究竟の苦の辺際に至ることを思量観察する時、彼の行(ぎょう)は何を因とし、何を集とし、何を生とし、何を触とするかを思量せよ。彼の行は無明を因とし、無明を集とし、無明を生とし、無明を触とすることを知るべし。彼の福行は無明を縁とし、非福行もまた無明を縁とし、非福不福行もまた無明を縁とする。故に知るべし、彼の行は無明を因とし、無明を集とし、無明を生とし、無明を触とすることを。彼の無明が永く滅して余すところ無ければ、則ち行も滅す。彼の乗ずる無明滅の道跡を如実に知り、彼の向次法を修習することを、比丘が苦を正しく尽くし究竟の苦の辺際に至ると名づく。所謂、無明滅なり。
釈:復次、比丘が苦を正しく尽くし究竟の苦の辺際に至ろうとするならば、意根の心行がどのような因によって生じ、どのような法が集起して意根の心行が現れ、どのような法が生じて意根の心行が生じ、どのような法が触れて意根の心行が出生するかを思量観察しなければならない。思量の後、意根の心行は無明の故に現れること、無明が集起して意根の心行が出生すること、無明が生じて意根の心行が生じること、無明が触れて意根の心行が現れることを了知する。意根が福業を造作しようとする心行は無明の故に生じ、非福不善業を造作しようとする心行も無明の故に生じ、さらに福でも非福でもない心行を造作しようとするのも無明の故に生じる。
故に比丘らは知るべし、意根の心行は我々を因縁として出生し、無明の集起によって出生し、無明の出生によって出生し、無明が触れることによって出生することを。もし意根の無明が永く滅尽して余すところ無ければ、意根の心行もまた滅尽する。比丘らは修習する無明滅尽の道跡を如実に了知し、向道の法と助道の法を修習する。これを比丘が苦を正しく尽くし究竟の苦の辺際に至ると名づく。即ち無明の滅尽なり。
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