法に依るとは事実と真実に依拠することを指し、これは極めて困難なことです。智慧が不足しているため事実を証得し検証することができず、説法が事実と矛盾しないことは極めて重要であり、仏説と矛盾しないことが最も肝要です。実証とは事実を証得し、事実と符合することを意味し、これが修行の最も重要な点です。所謂"証拠"とは自ら検証を経て確固たるものとなった後に初めて信従できるものであり、検証不能あるいは検証能力のない法は依拠すべき法や事実とは成り得ません。
人に依るとは名声ある者を主とし、人に依って法の是非を確立することを指します。これは純粋に法理法義と事実の観点から法の是非を判定するものではなく、仮に人名を隠した場合、法についてほとんどの場合どうすればよいか分からず、選択判断ができなくなります。このような過失は極めて大きいのです。仏法を学び修行するには法と事実に依らなければならず、人に依ってはなりません。仏陀以外の者は誰も100%依従できる存在ではなく、そうでなければ仏陀が臨終に遺した「法に依り人に依らず」という懇切な教えは空文となり、我々は仏陀の教導と深い配慮に背くことになります。
仏陀がもしある者の説く内容について如何なる印証も与えていない場合、あるいは100%正しいと保証していない場合は、慎重に選択判断しなければなりません。仏陀お一人のみが100%正しく説法され、100%依止できる存在であり、弥勒妙覚菩薩を含む他の者たちは100%正しくありません。あらゆる衆生、あらゆる菩薩には多かれ少なかれ欠点と誤りがあり、智慧がなく充分な証拠がない時は軽々しく評論すべきではありません。智慧がある時は自らの現量観行を示して問題を説明すべきです。
さらにいかなる人物を評論する場合でも、証拠を充分に揃え確実なものとし、具体的に一二三四五と問題を明確に述べなければなりません。もしそれができない場合は現量観行がなく証拠がない状態ですから、背後で密かに修行を重ね、自らの智慧のレベルを高め、観行智を向上させるべきです。もし証量がなく現量観行の智慧がない場合は沈黙を選び、評価や評論を行わないことです。もしやむを得ず発言する場合は、証拠がないために果報も大きく、誤った評論をすればその果報も同様に大きいのです。
もし自ら現量観行ができない場合は、名声ある者の言説に依らざるを得ませんが、これは人に依る行為であり法に依るものではありません。多くの人々が名声と権威だけを信じるのは止むを得ないことです。なぜなら智慧がなく弁別できないため、名声と権威に依るしかないからです。もし名声と権威ある者の法義に誤謬があれば、後世の人々は永遠にその誤謬を引き継ぐことになり、誰も法義に対して何らかの補完や修正を加えることができなくなります。仏法はこのようにして扼殺され停滞してしまうのです。世俗の科学技術界や学術界では決して人に依らず、科学技術は常に飛躍的に発展し日進月歩です。しかし仏教界で行われているこの人に依る規則のため、数千年にわたって仏教は発展し続けることができないでいるのです。
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