衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月28日    水曜日     第2 回の開示 合計2744回の開示

雑阿含経(二九二)その五

(五)原文:さらにまた。比丘が苦を正しく尽くし、究竟の苦の果てに至ろうと観察思惟する時、六入処を思量すべきである。何が因となり、何が集い、何から生じ、何に触れて存在するのか。六入処は名色を因とし、名色の集いより生じ、名色に触れて存在することを知るべきである。名色が永く滅び余すところなき時、六入処もまた滅ぶ。彼らが修める名色滅尽の道跡を如実に知り、その向次法を修習する。これを比丘が正しく苦を尽くし究竟の苦辺に至ると名づく。すなわち名色の滅尽という。

釈:さらに比丘が苦を正しく尽くし究竟の苦の果てに至ろうと観察思惟する時、六入処がどのような因縁法によって生じ、どのような法の集起によって現れ、どのような法の発生に伴い生じ、どのような法に触れて存在するかを思量すべきである。この時六入処が名色を因縁として生じ、名色の集起によって現れ、名色の発生に伴い生じ、名色に触れて六入処が生じることを知るべきである。名色が完全に滅尽した時、六入処もまた滅する。比丘たちは自らが修める名色滅尽の道跡を如実に了知し、向道の法と次なる助道の法を修習すべきである。これを比丘が正しく苦を尽くし究竟の苦辺に至ると名づける。すなわち名色の滅尽というのである。

名色五蘊あるところに六入が存在し、衆生あるところに六入が存在する。六根が不完全な場合を除けば、六入処が現れる因縁は名色の存在による。名色はいつから始まるか。受精卵の段階から母胎を出て肉身が形成され、死に至るまでの期間である。五蘊とは色受想行識を指し、色は身体、名は七識とその作用を指す。五蘊が衆生を構成し、衆生を名色とも五蘊とも称する。名色つまり受精卵ある時、眼耳鼻舌身の五根が成長し、五根が触れ、触によって受が生じ、受によって愛が生じ、愛によって取が生じ、取によって有が生じ、有によって生が生じ、生の後に老死憂悲苦悩が続く。これが生死の因縁連鎖である。比丘が再び如何に苦を滅ぼして究竟の苦辺に至るかを思量する時、六入の因は全て名色にあり、名色の集いが六入を集わせ、名色の生が六入を生じさせ、名色の触が六入を触発する。名色を永く滅尽すれば六入も滅する。では如何にして名色を滅するか。向法・次法・助道の法を修習し、観行を実践すれば名色を滅し五蘊を滅することができる。五蘊を滅する方法を学ぶ者は現れないが、我らが仏に成ることを発願する際、五蘊を滅する必要はなく、恐れることもないのである。

——生如法師の開示
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