衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月26日    月曜日     第2 回の開示 合計2738回の開示

雑阿含経(二九二)之二

(二)原文:復次、比丘は苦を正しく尽滅させ、苦の究竟の彼岸に至ることを思惟し観察す。時に彼は『取は何を因とし、何を集起とし、何より生じ、何に触れて起こるか』と思惟す。取は愛を因とし、愛を集起とし、愛より生じ、愛に触れて起こると観ず。かの愛が永く滅び余すところ無き時、取もまた随って滅ぶ。彼が修めるべき取滅の道跡を如実に知り、その向かう次第の法を修習す。これを比丘が苦を正しく尽滅すべき方向に向かい、究竟の彼岸に至るという。即ち愛の滅尽これなり。

釈:再び、比丘が苦を正しく尽滅させ究竟の彼岸に至ろうとし、『取はどのような因縁で現れ、どのような法の集起によって生じ、どのような法の接触によって起こるか』を思惟観察する時、取が愛を因とし愛の集起によって生じ、愛が生ずれば取も生じ、愛が触れれば取も起こり、愛が永滅すれば取も随って滅ぶことを観ずる。比丘たちは取着を滅する道跡と道筋について如実に了知し、苦滅に向かう法とそれを助ける次第の法を修習すべきである。これが比丘が次第に苦を正しく尽滅すべき方向に向かい、究竟の彼岸に至る方法、即ち愛の滅尽である。

衆生がもし取着を滅し諸法に執着しなければ、衆苦は滅する。究竟的に如何に苦を滅するか、その途上に修すべき道は何かを、我々は如実に了知すべきである。苦滅の修行法を如実に了知すること、これが正しく苦を尽滅すべき方向に向かう向法と次第の法、即ち三十七道品(四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道)を修習することである。『向』とは苦滅の方向に向かうことを指し、『次』とは補助的な法を指す。主たる法は五蘊を観察して我見を断じることにあり、向次法を修習する目的は我見を断ずる準備を整え、見道の前提条件を満たすことにある。これによって如理に観察観行し、最終的に証果を得て我見を断ずるのである。

——生如法師の開示
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