菩薩は必ず四摂法を修めなければなりません。愛語、同事、利楽、同行によってこそ良き衆生縁が生まれ、何事も円滑に運ぶのです。もし衆生との善縁がなければ、菩薩としての務めを果たせず、衆生を救済することはできません。世俗の事柄においても良縁が重んじられるように、仏法ではさらに善縁を尊びます。善縁こそが人々を結びつけ、互いに助け合い、共に向上し、自利利他を実現する菩薩道の修行を速やかに成就させ、仏道を完成させるのです。自ら進んで障害を設けるのは無智の所業であり、自ら躓きの石を置き、罠を仕掛けるようなもので、結局は自らが損害と不利益を被ります。智者は言行の結果を慮り、他人の利益や名誉を損なわず、自らを讃えて他を貶めることはありません。己の欲せざるところを他に施さぬことは人としての最低限の道であり、まして菩薩を目指すならば、これに優れた規範を備えねばなりません。菩薩の心行は常に善きことを人に与え、悪しきことを自らに帰すべきであり、決してこれを転倒させてはなりません。善を自らに帰し、悪を他に転嫁するならば、それは菩薩の行いとは言えません。
菩薩同士に問題が生じたならば、面と向かって率直に話し合い、過ちがあれば改め、なければ自らを戒めるべきです。陰で二枚舌を使い対立を煽ってはなりません。是非を論じる者は誹謗の罪を犯しやすく、その結果は甚だ良くありません。事実に基づく正しい指摘を有根誹謗、事実無根の誤った中傷を無根誹謗と呼び、最も軽いものは四衆過と言います。四衆とは在家の男女二衆と出家の男女二衆を指し、うち出家二衆は三宝とも称されます。三宝はさらに凡夫三宝と勝義三宝に分かれます。四衆過と誹謗の二つの業は共に軽からざるもので、その果報は重いものです。全ての菩薩が口業を善く護ることを願ってやみません。問題があれば直接話し合い、互いに改善を促し、監督し合い助け合うべきです。
全ての衆生が最も犯しやすい業は口業です。妄語、両舌、綺語、悪口、そして対立を煽り、仲を裂き、嫉妬し、誹謗すること、これは誣陷陷害とも言われます。戒律において口業への規制が特に厳しいのは、口業が最も犯しやすく、最も頻繁に起こりながら、最も注意されないためです。ゆえに人は発言する際、よく考えてから語るべきであり、やみくもに言葉を発して他を顧みるべきではありません。
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