衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月21日    水曜日     第1 回の開示 合計2725回の開示

雑阿含経(二九〇)の触集

例えば二本の木が擦れ合うように。和合して火が生じる。もし二本の木が離れれば、火もまた消える。このように、すべての受は触を縁として集起する。触が生じれば触が集起し、それぞれの触が集起する故に、それぞれの受もまた集起する。それぞれの触の集起が滅すれば、それぞれの受の集起もまた滅し、止滅し、清凉となり、静寂となる。多聞の聖弟子がこのように観ずる時、色より解脱し、受・想・行・識より解脱し、生老病死憂悲悩苦より解脱する。我は彼が苦より解脱せりと説く。仏がこの経を説き終わると、比丘たちは仏の説を聞き、歓喜して奉行した。

釈:仏は説かれた。二本の木が接触摩擦する譬えのように、火が生じる。木が離れれば火は消える。このように、全ての受は触を縁として集起する。触が生起すれば触が集起し、各々の触が集起すれば各々の受も集起する。各々の触の集起が滅すれば、各々の受の集起も滅し、心は清凉に止滅寂静する。多聞の聖弟子がこのように観行すれば、色蘊より解脱し、受想行識蘊より解脱し、生老病死憂悲苦悩より解脱する。これをもって我は彼らが苦より解脱せりと説く。

仏は二本の木の摩擦による発火を以て、触集すれば受集するという縁起の理を譬えられた。木が触れ合わねば火は生ぜず、触れの因縁がなければ苦悩も生じない。我々の苦悩は触によって生じ、触の因縁が滅すれば受も滅する。いかなる受も触縁が集起すれば受集が生じ、縁が続く限り集起は続く。触あれば受あり。触が生起し集起すれば受集が生じ、触は六根と六境の接触によって生じ、全ては縁によって成立する。縁起の法は虚妄であり、条件によって生じた不実のものである。ただ第八識如来蔵のみが条件に依らずして存在する。

——生如法師の開示
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