衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2020年10月16日    金曜日     第6 回の開示 合計2713回の開示

悟りを避ける方法

現在、多くの人々が大乗と小乗の修行において解悟に留まり、今後の証悟を阻害することを懸念しています。よって現在問題となるのは、如何にして解悟を回避するかということです。

解悟とはどのような状態でしょうか。解悟とは法義に極めて精通し、大小乗の修行の理路が極めて明瞭となり、ほぼ明確にその道理を理解し、疑問が無くなったかのように思える状態を指します。

しかしこれは依然として法に対する勝解の段階に留まっており、証得までにはまだ隔たりがあります。この段階で自らを開悟したと認識する者が非常に多く、容易に開悟の認証を受けがちですが、勝解の後にはさらに念・定・慧が続きます。最終的な真の慧、すなわち意根の慧が開発されるまでには、なお厳しい道程が待ち受けており、この過程は極めて困難で忍耐を要するものです。毅力・功夫・願力・信力・忍力・慈悲力によって初めて関門を突破し、暫定的な終点あるいは目標・目的地に到達できるのです。

意識が法を勝解した後も、意根を染め続けて同様に勝解させる必要があります。意根が勝解してもなお開悟には属さず、心心無間の念力を形成し、念力が成熟して初めて定力が現れます。定力が具足して初めて智慧が開発され、大小乗の見道の智慧が現前し、その道を識り証得し確認するに至り、永遠に菩提道から退転することなく、見道の功徳を失わずに済むのです。さもなければ縁に遇えば容易に菩提道から退転します。なぜなら意識は理解しても意根が未だ明らかでないため、かつて意識が理解したものを否定するのは最も自然なことだからです。このような退転もまた意識の退転であり、意識が認めないだけで、意根は退転していません。意根はそもそも入ったことがなく、道を見たことがないのですから、翻って認めないことなどあり得ず、退転もあり得ません。この種の所謂退転は見道以前の外門で騒ぎ立てているに過ぎず、一旦門内に入れば真実の定慧等持の三昧境界によって静寂を得、心が空となり寂静するため、そもそも騒ぎ立てることはありません。

勝解・念・定という三つの段階は全て重要であり、前者無くして後者はありません。特に法義が意識から意根へと至る過程は極めて重要なポイントです。意根が一旦法を認めれば疑情が生起し、心心念念と疑い続け、時至れば必ず禅定が現前します。その後は修定と参禅という二つの関門に至ります。法にある程度の勝解を得た後、如何にして定力を高め、如何に参究すべきでしょうか。例えば我見を断ずる理について、心中に大まかな理解があり、無我の思想がほぼ明らかになったとしても、これはまだ証得には属しません。更に如何に修行を進めるべきでしょうか。

この段階で定力の無い者もいれば、ある程度の定力はあるが未だ不十分な者もいます。当然ながら最優先の課題は定を修し定力を高める方法を模索することです。未到地定を獲得し完全に具足した後、定中において参究し、最終的に初めて証悟を得るのです。これによって解悟を回避することができるのです。

——生如法師の開示
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