(三)原文:無知で教えを聞かない凡夫は四大から成る身に我と我所を執着するが、識に我と我所を執着することはできない。何故か。四大から成る色身は十年、二十年、三十年、あるいは百年ほど留まることもある。もしよく養生すれば、さらに少し過ごすことも可能である。しかし心意識は昼夜の時を分かたず、瞬時に変化し、異なる生を起こし異なる滅を見る。猿猴が林の木々の間を遊ぶが如く、瞬く間に方々を巡り、枝を攀じたり放したりするように、かの心意識もまた然り。異なる生を起こし異なる滅を見るのである。
釈:仏は説かれた。無知な凡夫は四大から成る色身を我と我所と見做すが、識心を我と我所と見做すべきではない。何故かというに、四大の色身は十年、二十年、三十年、あるいは百年ほど留まっては滅びるが、もしよく養生すれば百年を超えることもある。しかし心意識は昼夜の刻を分かたず、瞬時に流転し、刹那毎に変化し、ここに生じて彼処に滅び、彼処に生じてここに滅びる。恰も猿猴が林間を遊行するが如く、瞬く間に方々を巡り、枝を掴んでは放ち、放てばまた別の枝を掴むように、人々の言う心意識もまた然り。異時異処に生滅し、この法に生じて彼の法に滅び、彼の身に消えてこの身に現れ、日夜刻々と種々の変化を続け、決して止むことがない。
凡夫の我見で最も深刻なのは、識心の作用を我と我の所有と見做すことであり、この我見は断じ難い。色身への我見は比較的断じ易い。色身の生滅変異の現象は観察し易く、識心と分離できるからである。識心の生滅変異は観察理解し難い。五陰身の一切の作用は識心に属し、あまりに微細で連続的であるため、実体感を覚え、自らの作用と感じてしまう。識心の受想行識の作用を自己から分離し看破することは極めて困難なのである。
もし識心を我と我所と見做せば、臨終の際には識心を必死に掴み留め、見聞覚知を保持しようと焦り、その機能が徐々に弱まり身体が使えなくなるのを感じつつも、識心の滅びを受け入れられず、死という現象を耐え難く苦痛に思う。それでも凡夫は自らの識心が無常で生滅変異するものと認めず、これらの作用が継続することを願い続けるのである。
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