仏は説かれた。「汝の意を信ずるべからず、慎んで汝の意を信ずることなかれ。阿羅漢道を得て、乃ち汝の意を信ずべし」と。
信には深い信と浅い信、真実の信と偽りの信がある。深い信と真実の信とは意根の奥底における確信であり、浅い信と偽りの信とは意識層面の表面的な信、あるいは意識が故意に信じるふりをしながら意根が真に信じていない状態を指す。
「意」には二つの次元が存在する。一つは意根の深層に根ざす知見・観点・見解・主張であり、もう一つは意識レベルの知見・観点・見解・主張である。
自己の意思を信じることには段階的な差異がある。第一に、意識が意根の知見・観点・見解・主張を信じる場合。第二に、意根が意識の知見・観点・見解・主張を信じる場合。第三に、意根が意根自身の知見・観点・見解・主張を信じる場合。第四に、意識が意識自身の知見・観点・見解・主張を信じる場合。これに加え、意識が信じている時に意根は信じず、意根が信じている時に意識は信じないなど、様々な状況が存在する。
意根には根深い無明と染汚が存在し、頑固な我見と邪見が宿っている。無始以来の無明は生来のものであり、容易に改められない。しかし無明の故に、衆生の意根は自らの邪見を深く信じ、教化を受け入れようとしない。それ故に生死を超えられず、意識を支配して邪見を抱かせ、無明による業と染汚の業を造り続け、輪廻を断ち切れないのである。世尊はこのような衆生を救済せんがため、自らの無明の煩悩を省み、衆生に告げられた。「本来備わる知見を信じてはならない。四果阿羅漢を修証し、我見我執を断じ尽くし、心が清浄となり智慧が解脱した時に至って初めて、自らの知見と観点を信じるがよい」と。それ以前においては、煩悩の障りにより智慧が不足し、知見が正しからざる故に、もし自己の知見を深く信じて疑わなければ、無明の穴から出ること叶わず、生死の解脱を得ることはできないのである。
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