衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月04日    日曜日     第3 回の開示 合計2675回の開示

禅定と見道の関係

禅定は未到地定からすでに煩悩に対治し、煩悩を降伏させることができる。煩悩を降伏させ、覆いとなる障害を取り除くか軽減してこそ初果を証得できる。初果の者には見解のみ存在し、見所断の三つの束縛(三縛結)を断じたに過ぎないが、この三縛結を断除するには必ず未到地定が必要である。未到地定は修定によって初めて発起されるが、修所断の煩悩と同一視すべきではなく、同列に論じるべき事柄ではない。

初果の見解は見道時に断じる見惑であり、なお思惑の煩悩は残存する。思惑の煩悩は見道後に修道を進めることで漸次断除されるが、これも見解に属する。見解が透徹すればするほど、自我と所有の観念が断除され、心が空となり、煩悩はより微弱となる。

初果の見惑は初めて見道する際に断じられるが、この初見道も漸次の修道の結果である。修めなければ見惑を断除できない。修道の内容は三十七道品であり、その中の一つが禅定である。三十七道品を修めないか、修養が不十分であれば見道できず、ましてや見惑を断じることはできない。故に未到地定は初果者が見道する際に具備すべき必要条件である。

初果の見道以前には、従前の貪瞋痴の煩悩を一定水準まで降伏させ、これらが見道を妨げない程度に抑制しなければならない。三十七道品の修行過程において、極めて重い貪瞋痴の煩悩を次第に降伏させ、煩悩を漸次稀薄にし、心を柔軟にし、智慧を明らかにする。全ての覆いは密雲の如く次第に薄れ、智慧の陽光が雲間から現れる時、初めて見道が達成される。

見道前の煩悩が稀薄であるというのは、従前の深刻な煩悩との相対的比較による表現であり、第二果における貪瞋痴の稀薄さとは程度が異なる。両者は相対性の観点から語られる同語であっても、内包は全く異なり、混同すべきではない。

四聖諦とは苦聖諦・苦集聖諦・苦滅聖諦・苦滅道聖諦を指す。このうち苦滅道聖諦は修道の真理、理論的根拠である。この教理の修学は初果以前に始まり、四果阿羅漢の証得まで継続する。故に修道は見道後に始まるのではなく、四聖諦に接した時点、最初に四念処観を修した時点で既に開始されている。修めずして如何にして見道できようか。三十七道品中の四正勤とは、一に已生の悪法を断じ、二に未生の悪法を生ぜしめず、三に未生の善法を生じさせ、四に已生の善法を増長させることである。これらの善を修め悪を滅する修道の内容こそ、衆生の煩悩に対治するものであり、対治によって煩悩を降伏させ微弱化させてこそ、見道が可能となる。

——生如法師の開示
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