衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月30日    水曜日     第2 回の開示 合計2663回の開示

雑阿含経(二八七)之四

(四)原文:我また是の如く思惟す。何の法無きが故に行無し。何の法滅ぶるが故に行滅ぶ。即ち正思惟す。実の如く無間等し。無明無きが故に行無し。無明滅ぶるが故に行滅ぶ。行滅ぶるが故に識滅ぶ。識滅ぶるが故に名色滅ぶ。名色滅ぶるが故に六入処滅ぶ。六入処滅ぶるが故に触滅ぶ。触滅ぶるが故に受滅ぶ。受滅ぶるが故に愛滅ぶ。愛滅ぶるが故に取滅ぶ。取滅ぶるが故に有滅ぶ。有滅ぶるが故に生滅ぶ。生滅ぶるが故に老病死憂悲悩苦滅ぶ。是の如く是の如く純大苦聚滅ぶ。

釈:仏は説きたまう。私は再びこのように考えた。どの法がなければ行がなくなるのか。どの法が滅びれば行が滅びるのか。ただちに正しい思惟に入り、その後実の如き無間断の智慧が生じ、意根の無明がなければ行がなくなり、意根の無明が滅びれば行が滅びることを証得した。行が滅びれば六識の業行が滅び、六識の業行が滅びれば来世の名色が滅び、名色が滅びれば六入処が滅び、六入処が滅びれば触が滅び、触が滅びれば受が滅び、受が滅びれば愛が滅び、愛が滅びれば取が滅び、取が滅びれば有が滅び、有が滅びれば生が滅び、生が滅びれば老病死憂悲苦悩が滅び、かくの如き大苦の集積が滅び去るのである。

十二因縁の生死循環は結局のところ意根の無明によるもので、意根が元凶である。故に生死輪廻を離れ解脱を得るには、必ず意根の無明を破り断じ、意根が再び三界世間に妄想行せざるようにせねばならない。意根の心行が滅びるのは、意根が一切法が空であり無我であることを証得したからである。それにより、いかなる法をも執取する理由も動力もなくなり、取着がなければ苦もなく、即ち解脱と自在を得るのである。

意根が五陰世間に対して心行なく、意欲なく、攀縁なく、執取なければ、再び六識を指使して身口意の業行を造作せしめず、七識心は全て清浄となり、無為となり、寂静となる。三界の業は終わり、業種がなくなれば来世に再び五陰世間が生じず、名色もなく、こうして暫時寂滅する。無量劫の後、大乗の法縁が熟すれば、再び寂滅涅槃より出生し、菩薩道を踐行し、自らを度し他を度し、仏道を完成して真の寂滅の処所――無住処涅槃に入り、再び灰身泯智する必要はなくなる。

意根の無明破除は我見を断じて須陀洹果を証することから始まり、辟支仏果を証するに至り、三界の生死無明種子を断尽する。さらに無始無明と塵沙無明は未来の成仏の道の修証において徐々に破除され、全て断尽すれば大覚世尊となるのである。ただ三界無明を断尽するのみでは覚りは一小部分に過ぎず、大覚ではなく究竟覚ではない。仏道を学ぶ上で発心が重要であり、発心が大きければ大きいほど覚りも大きく徹底し、成仏も速やかである。

——生如法師の開示
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