(二)原文:いかなる法あるがゆえに名色ありとなるか。いかなる法を縁として名色ありとなるか。すなわち正思惟をおこす。実のごとく無間等生ず。識あるがゆえに名色あり。識を縁として名色あり。われこのように思惟する時、識を極限としてさらに彼を超ゆること能わず。すなわち識を縁として名色あり。名色を縁として六入処あり。六入処を縁として触あり。触を縁として受あり。受を縁として愛あり。愛を縁として取あり。取を縁として有あり。有を縁として生あり。生を縁として老死憂悲苦悩あり。かくのごとく純大苦聚が集起する。
釈:仏は説かれた。私は再びこのような念を生じた。いかなる法が存在するがゆえに名色が生じるのか。いかなる法を縁として名色が生じるのか。ただちに正思惟に入り、その後実相無間断の智慧が生起した。阿頼耶識があるがゆえに名色の生起があることを知り、阿頼耶識を縁として名色の生起があることを悟った。私がこのように思惟する時、阿頼耶識に至って、さらに前へ思惟を進めることができない。前には何らの法も存在しないからである。すなわち阿頼耶識を生じさせる法はなく、あるいは阿頼耶識の生起を促す法もない。阿頼耶識より前にこれを超える法は存在しない。
これは生死の流れを逆に遡り根源を求めるもので、生死の源は阿頼耶識にある。阿頼耶識より生死が流転し、阿頼耶識を縁として名色あり、名色を縁として六入処が生じ、六入処を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として執取が生じ、執取を縁として三界の有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老死憂悲苦悩が生じる。かくして三界生死の大苦が集起するのである。なぜ阿頼耶識より生死が流転するのか。意根に無明があるため、五陰世間法を保有せんと欲し、阿頼耶識は意根の無明と業種に従って、三界世間と五陰身を生じ、生死をその中に顕現させるのである。
十二因縁は無明を縁として生死流転の苦が生じ、十因縁は無明を滅して生死流転の苦を滅する。十二因縁の生死流転が存在する所以は、衆生の意根に無明があるためである。無明を縁として、阿頼耶識は無明を媒介として一連の生死の連鎖を生じ、衆生を苦海に導く。これに対し十因縁による生死流転の逆観は、老病死の現象を遡って阿頼耶識に至る。もし阿頼耶識を証得し、阿頼耶識が如何に五陰名色を生じるかを知れば、菩薩となり大乗修行に入る。
もし十二因縁と十因縁の各支分を実証すれば、中乗聖者の辟支仏となる。辟支仏たちは十因縁の各支分を実証するも、阿頼耶識に関してはただ実有として推算するのみで、阿頼耶識を証得せず、その作用の所在を究明しない。故に阿頼耶識の実証とはならず、この点において大乗菩薩の実証とは本質的差異がある。
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