意根の働きを現量のまま如実に観察できるためには、唯識の種智の智慧が必要であり、最低でも初地の菩薩の観察智慧がなければなりません。意根を観察できず、意根を真実に知らないが故に、論争が生じるのです。浅い法に論争がないのは、誰もが現量で観察できるからです。観察できないものについてこそ論争するのであり、そうでなければ何を争うことがありましょうか。白は白であり、黒は黒です。白黒を区別できないからこそ論争するのです。
意根が持つ心所法とはいったい何か、実際に観察検証できる者がいるでしょうか。第六識も第七識も煩悩に染まっており、覆い障りがこれほど重いのに、どうして実際に観察する能力がありましょうか。もし検証できる者がいるなら、その検証過程を述べてみよ。
法に依るとは、意根が運行する真実の相に依ることであります。もし意根を観察できないなら、どうして意根の真実の相に依って意根を定義できましょうか。どうして実際の実相法に真に依ることができましょうか。実相法に依ることができなければ、それは人に依ることであり、人に依るのは仏法修証の宗旨に合わず、誤りや漏れが生じ、仏意に背き、ましてや悟りを得ることはできません。
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