衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月02日    水曜日     第3 回の開示 合計2586回の開示

鬼道衆生となる根本因

鬼の特徴は貪りと吝嗇である。故に貪りと吝嗇の心を持つ者は、命終われば必ず鬼道に生まれる。何を貪ろうと関係ない。餓鬼と悪鬼は共に鬼道の衆生に属する。餓鬼の心性は非常に貪欲で吝嗇であるため、何も所有できず極度に貧困に陥り、飲食を得られず、水に近づけば水が火に変わり、非常に苦悩する。悪鬼の心性は邪悪で、常に他の衆生(人間を含む)を害する。鬼道の衆生の大多数は単に鬼と呼ばれ、普通の鬼であり、餓鬼や悪鬼とは区別される。衆生の貪りは金銭や財物に限らず、五陰世間におけるあらゆる法への執着も貪りである。大衆が当然と思う身口意の行為も全て貪りであり、鬼となる因である。貪りの範囲は極めて広大である。

私の隣家に老婆がいた。生前、庭で三人の老人とよく麻雀を打っていた。三人の老人は相次いで亡くなり、最後に老婆も亡くなった。鬼道に生まれた後、娘に夢枕に立ち麻雀を要求した。娘が紙の麻雀を燃やすと、その後また夢で「亡くなった三人の老人と麻雀を続けている」と告げた。彼らは比較的福徳ある鬼で、生前大悪業を造らず、遊びを貪り、死後も鬼道で遊び続けている。生前音楽や美術に携わった者が鬼道に堕ち、後に仏教を信じ、信者の体に憑依して寺院で福徳を積む例にも出会った。芸術家も貪りであり、芸術への執着と情愛を捨てきれず、死後鬼となる。琴棋書画などを愛好するのも全て貪りである。過去の文人墨客・詩人作家・随筆家らの多くも死後鬼となり、貪りの習気を持っている。何かを愛すればそれに縛られ、解脱できない。

更に深刻な貪りとして、色欲や愛情への執着がある。死後は多情鬼や色鬼となる。多くの人は情愛を当然のものとし、他人に情を抱くことを誇り、多情を賞賛し、愛情や感情を賛美する。実は情愛は最も深刻な貪りであり、生死輪廻の主因である。仏陀は楞厳経で「情が重ければ必ず三悪道に堕ち、九情一想は水輪(地獄)に沈み、七情三想は鬼道に生まれ、情想均等は人間界に生まれ、情少想多は天界に生まれる」と説かれた。「想」は理性を表し、心が軽ければ善道に昇る。「情」は重濁で、心が重ければ必ず三悪道に堕ちる。

情愛は人間の法律や道徳の観点から正当か否かにかかわらず、因果の結果論では全て不適切で存在すべきでない。情愛は貪愛であり、貪りがあれば水が生じ、水は必ず下流する。多くの人は情愛が芽生えると詩画で感情を発散させ、美しく真摯で浪漫的だと感じ、多情を善と考える。実際、多情は不善であり、自他を害して共に三途に堕ち、輪廻の苦しみと多情の苦を受ける。多くの苦受は情執によって招かれ、情がなければ執着も苦もない。

正当な情愛でさえ悪報苦報があるなら、不適切な情愛(発生すべきでない情、他者を害する情、不道徳な情、他者が嫌悪する情)は更に甚大な悪報苦報がある。「正当」とは法律が許容保護し道徳規範が認めるもの、「不適切」はその逆である。仏教徒は自心を管理し、克服可能な貪愛や情執は極力克服し、抑制すべきである。畢竟、貪愛は善法ではなく煩悩に属し悪法である。多くの人が「縁を結べば来世で救える」と異性と頻繁に関わり、不適切な情愛を抑制せず放任し、善縁を結び救済できると考える。しかし一大劫の間、異性を救済する力はなく、情愛のもつれで自他共に悪道に堕ち多劫の苦を受ける。悪道を脱しても依然として救済力はなく、貪愛煩悩を断じない限り必ず貪愛によって悪道に堕ちる。

衆生を救う心は善だが、道理を明らかにし法を弁える必要がある。さもなければ善が悪に転じ、衆生を救えず逆に衆生に救われ、損得に合わない。これを口実にする者は特に因果が誰も赦さないことを自覚すべきである。総じて娑婆世界では、あらゆる法や境界に貪愛・歓喜・執着を起こし捨てない限り、全て貪りに属し、故に貪りは一般に鬼道に堕ちて業果を償う。因果は虚しからず。

——生如法師の開示
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