色身に身識が存在しない状況においても、身体は微弱な活動を維持することが可能です。例えば、ある衆生の首が切断された後も身体が蠕動する現象は、意根が身体を執持する際、大脳中枢神経系を制御できないものの、脊髄神経系が存続しているためです。意根は脊髄神経系を介して身体の蠕動を引き起こし、この過程において必ずしも身識や意識の関与を必要としません。また睡眠時、深い眠りに陥った際にも身体に微弱な活動が観察される現象も、同様に神経系の活動に属します。夜中の寝言やまぶたの瞬きも無意識の活動であり、意識と身識は現起していません。
身体内部の活動、すなわち心拍・脈拍・呼吸・神経系活動・胃腸蠕動・消化吸収・細胞新陳代謝などは、一般的に如来蔵の自主的制御と執持によるものであり、七識が関与する余地はほとんどありません。内臓器官の活動は身識を必要とせず、睡眠中も継続します。これが停止すれば生命は終焉を迎えます。身体活動の多くは身識や意識の支配下になく、意根もこれを統制できません。人の生老病死は意根の制御を超越し、ましてや意識では及ばず、すべて如来蔵が業種に依って行うものです。身体内部のいかなる機能作用も、我々の指揮に従わない場合は如来蔵単独の執持によるものと観察されます。血圧や体温も同様で、特別な禅定や神通力、あるいは強力な意念力を有する者を除き、意のままに制御することはできません。
ただし七識の情緒や心理活動は色身内臓の運行に影響を及ぼし、意根は如来蔵の色身執持作用を変化させ得ます。六識の活動は意根が主導し、如来蔵にも影響を及ぼします。七識が色身内臓に及ぼす影響と制御は、如来蔵の執持方式・制御方式とは大きく異なります。その差異とは何か。如来蔵は六・七識と五識の影響も受容するため、我々の修行は意義を有するのです。さもなくば一切が固定化され、修行の効用は失われます。常に座禅を組めば色身の一切を変化させ得、修行の要諦は六・七識に工夫を凝らすことにあります。六・七識が修まれば天変地異の如き変化が生じ、遂には成仏に至るのです。
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