識心の識性は、無明の性、愚痴の性、煩悩の性、遮障の性、執着の性であり、その智慧は浅薄であり、法を見るとき往々にして法相の中に堕し、唯識に関する智慧を具えず、法の真の姿を識別できない。明心した後、次第に禅定を具え、煩悩を断除し、遮障を取り除き、漸次に牢関を過ぎ、有余涅槃の中で命終に際し無余涅槃に入る能力を有しながらも入らない。その後、夢幻観を過ぎ、唯識を修学し、一分の唯識種智を具え、法を見て唯識性を知り、法の実質を悟り、世俗の法相に堕することなく、智慧は質的飛躍を遂げる。ここにおいて六七識は識を転じて智と成し、如来の家に入り、仏陀の真の仏子となり、仏種を紹隆し、仏に代わって一方を弘化することができる。
識転成智の前提条件として、必ず証果を得なければならず、しかも第三果以上の境地を要し、禅定を具え、初禅以上の禅定を必要とする。明心して証悟を開き、法界の総相智を有するのみならず、後得智を具え、五蘊の身中における如来蔵の微細な働きを現前に観察でき、更に一分の唯識種智を必要とする。故に禅定なき者は、証と言うべからず、智慧を論ずべからず、まして識転成智を語るべからず。せいぜい渇きを癒さぬ乾慧を有するに過ぎない。
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