衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2020年08月06日    木曜日     第2 回の開示 合計2515回の開示

衆生のアイデンティティは何によって表されるのでしょうか

無量の生死輪廻において、何が私たちの身分を表すのでしょうか。凡夫から仏陀に至る修行の過程で、何が私たちの身分を表すのでしょうか。

例えば成仏の時、何が仏陀の身分を表すのでしょうか。八地九地などの等覚菩薩となった時、何がこのような大菩薩の身分を表すのでしょうか。初地以上の菩薩となった時、何が初地以上の菩薩の身分を表すのでしょうか。明心開悟した後、何が明心菩薩の身分を表すのでしょうか。初果から四果を証得した時、何が初果二果の賢人の身分を表すのでしょうか。三果四果の聖人の身分を表すのは何でしょうか。辟支仏果を証得した後、何が辟支仏の身分を表すのでしょうか。

凡夫の位において、何が地獄衆生の身分を表すのでしょうか。何が餓鬼衆生の身分を表すのでしょうか。何が畜生の身分を表すのでしょうか。何が阿修羅の身分を表すのでしょうか。何が様々な天界の天人の身分を表すのでしょうか。何が異なる人間の身分を表すのでしょうか。

衆生が毎回死を迎える時、六識は滅び、五蘊身は滅びますが、末那識と阿頼耶識のみが存在し続け、共に来世へ赴き、来世の五蘊身を生じさせます。生生世世このようであるならば、末那識と阿頼耶識のみが衆生の身分を表すと言えます。しかし全ての衆生の阿頼耶識は同一であり、全く差異がありません。従って阿頼耶識は衆生の身分を表すことができず、そうでなければ全ての衆生の身分は同一となり区別がなくなります。故に末那識のみが衆生の身分を表すのです。

末那識がどのような徳行であるかが、そのまま衆生の姿を決定します。仏の徳行であれば仏世尊となり、仏陀を代表するのは末那識が成就した報身仏であり、衆生の果報身とは明らかに異なります。末那識が等覚菩薩の徳行であれば、衆生は等覚菩薩となります。末那識が八地菩薩の徳行であれば、衆生は八地菩薩となります。末那識が初地菩薩の徳行であれば、識を智に転じ始めた初地菩薩となります。

末那識が明心を証悟していても識を智に転じていない場合、衆生は三賢位の菩薩となります。末那識が単に証果を得て明心していなければ、小乗の聖賢となります。末那識が辟支仏果を証得し、辟支仏の徳行を備えていれば、衆生は辟支仏となります。

末那識の心性が地獄衆生のように残忍で瞋恚に満ちていれば、衆生は地獄衆生となります。末那識が非常に慳貪であれば、衆生は餓鬼となります。末那識が極めて愚痴で教化不能であれば、衆生は畜生となります。末那識の徳行が非常に闘争的で福徳を備えていれば、衆生は阿修羅となります。末那識の徳行に善悪が混在し、時々に変化すれば、衆生は人間となります。末那識の徳行が善に偏り、禅定を修めていれば、衆生は色界・無色界の天人となります。

人身は重要な転機であり、来世の昇沈を決定します。仏法を修行するに当たり、末那識を修めず、その徳行を向上・転換させなければ、臨終に六識が滅びる時、末那識は現前の徳行によって来世の身分を決定し、如来蔵と共に末那識の徳行に相応する胎中に赴くことになります。これが因果の法則です。多くの人々の修行は蜻蛉が水を点すように表面的で、末那識の心に至らず、仏法を末那識の心に実践しないため、末那識が無明を抱えたまま無明の胎蔵に再生し、無明の苦悩衆生を生み出すのです。

私は繰り返し末那識の重要性を説いて参りましたが、それでも愚痴な衆生は末那識を認めず、証果を末那識に証得させず、明心を末那識に明らかにさせません。その結果、来世には証果も明心もしていない末那識が再び転生しますが、その身分は決して証果や明心のものではなく、その時になって後悔しても既に手遅れなのです。

——生如法師の開示
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