衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年07月22日    水曜日     第2 回の開示 合計2482回の開示

五遍行心所の互いに俱に生ずる法

五遍行心所法における一切倶とは、五遍行心所法が一切の識心と倶にあり、一切の法と倶にあることを指します。識心が運行している限り、必ず五遍行心所法が運行しており、五遍行心所法を離れては識心は運行できず、存在できず、了別活動を行うことができません。そして一切の法においても、識心の五遍行心所法が存在します。なぜなら一切の法には少なくとも第八識と第七識の運作が必ず存在し、五遍行心所法は必然的にこの二つの識の運作に伴うからです。

五遍行心所法が互いに倶生するとは、これらの心所法が集まって同時に発生し運行することを意味します。例えば第八識が一つの法を生じる際、五遍行の全ての心所法は第八識に伴って最初から最後まで運行し、一つも欠けることがありません。しかし第六・七識の場合は必ずしもそうではありません。第六・七識が作意した後、興味がなければ触を起こさず、特に第七識意根はそうです。触れた後も必ずしも受を起こさず、特に第七識意根はそうです。受の後も必ずしも想を起こさず、特に第七識意根はそうです。想の後も必ずしも思を起こさず、特に第七識意根はそうです。意根の心所法が次の段階に進まなければ、六識は現れず、現れたとしても消滅して運行を停止します。特に意根の思心所法が現れなければ、六つの識は全て現れません。これにより意根が王者のような支配的立場にあり、その権能がいかに大きいかがわかります。

仏法は甚深であり、思惟が少しでも不十分であれば誤りが生じます。しかし大多数の人の思惟には誤りがあり、自分では気付けず、認めようともしません。多くの人は思惟が不十分なため、止むを得ず有名人の言説を100%信受し、既成の答えに依拠してこれを究竟と見なし、確実なものと考え、誤りがあっても気付かないのです。これは現在の仏教界において極めて普遍的な現象です。

——生如法師の開示
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