衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年07月18日    土曜日     第1 回の開示 合計2474回の開示

黒匣子の中の病

いわゆる病とは、四大の不調和であり、地・水・火・風が調和を失い、組織構造に変化が生じ、色身の基本粒子が変化することにより、身根などの五浮塵根に病変が現れることを指します。これには五勝義根の病変の可能性も含まれ、またブラックボックス内の内相分五根の病変も含まれます。しかし衆生の六識が感知する病変は全てブラックボックス内の病変であり、ブラックボックスを超えるものではありません。従ってこれは虚病・仮病であって、真の病ではないのです。例えば目が痛いと感じる場合、それは浮塵根である顔の目が痛いのではなく、ブラックボックス内の目の影像が痛いと感じているに過ぎません。影像に痛みなどあるはずがなく、単なる電気信号でしかないのです。同様に筋肉や骨が痛むと感じるのも、浮塵根としての身体の痛みではなく、ブラックボックス内の電気信号が痛むと感じているだけです。電気信号に痛みなどあるはずがなく、影像に痛みなどあるはずがありません。これは錯覚でしかないのです。

たとえ頭痛を感じたとしても、それはブラックボックス内の電流信号で構成された仮の頭痛であり、真の痛みなど存在しません。肩の上の頭は痛んでいないのです。六識の感覚は全て信頼できません。なぜならそれらは虚相と仮相に対する覚知であり、ブラックボックスの電流信号に対する覚知に過ぎず、移り変わる仮想的情境を覚知しているに過ぎないからです。その覚知後の感受に何の真実性がありましょうか。感受するもしないも、何の違いがありましょうか。幻化した仮相に対して何を行おうとも、為すも為さぬも空であり、覚知するもしないも、感受するもしないも、諸法は本来のままです。ただ個人の生死の繋縛を増すだけで、それ以外に何がありましょうか。

病む時、五根は痛まず、六塵も痛みません。では六識が痛むのでしょうか。六識が何を痛むというのでしょう、塵性などないのです。生死こそが大病であり、人々は重い病を患っている。治療が必要なのです。

——生如法師の開示
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意識が存在する限り、意根は五蘊身を離れません

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