五識が現れるためには、必ず五塵境がなければならず、五塵がなければ五識は生まれない。夢の中の境界はすべて独影法塵境であり、相対的に比較的実在する性境の五塵がないので、五識がない。五塵が欠けているため、独影境は欠落して不完全であり、独頭意識が単独で了別する法塵はあまり鮮明ではなく、大まかな虚幻不実なものである。それゆえ、意識と意根は夢の境に対して必ずしもはっきりと了別できるとは限らず、誤差は避けがたく、時には誤差が非常に大きく、しばしば張冠李戴(とんでもない取り違え)を起こす。夢の中では意根の了別が主導であり、意根はよく知らない境界に対しては了別の智慧が強くなく、正確な判断力がないので、了別する法は鮮明ではない。意根に定と慧があったり、あるいは非常に慣れ親しんだ境界であれば、ようやく八九不离十(ほぼ間違いなく)了別できるのである。
もし夢の中に五塵境があれば、五識が了別に参与するので、覚醒時と変わらなくなり、夢境も睡眠も存在しないということになる。夢の中で血が川となって流れるのを見て、血が赤色だと感じるのは、本来なら眼識が赤色を了別すべきであるが、夢の中には眼識がないので、誰がそれが赤色だと知るのか。楞厳経に、一定の境地に修到すれば、意根が六識の機能作用を代替できると説かれているように、一般に夢の中でも意根は五識の機能作用を代替でき、五識が了別すべき五塵を意根も縁し、いくらかの粗略な了別もあり、流れているのが赤い血だと知る。しかし人によっては、意根が夢の中で血や火が赤色だと知らないこともある。意根は時には五塵境が何であるかを知り、時には知らない。時には夢の中に色彩があるように見え、例えば赤い火の光のように、時には色彩がない。明らかに色彩が非常に鮮やかであるべき夢なのに、夢の中には色彩がないのである。
人道の衆生はすべて勝義根 (indriya) を有し、畜生道の衆生にも勝義根 (indriya) がある。畜生の色身は人間の色身と同様に、いずれも実の四大種子から構成された肉体であり、大脳があり、勝義根 (indriya) がある。勝義根 (indriya) に病変が現れれば、畜生も精神分裂や発狂を起こす。畜生の勝義根 (indriya) は業障の関係で、人間の勝義根 (indriya) より劣っており、人や物を見る際に大きな錯覚があり、法を見ることが如実でない。しかし各種の畜生にはそれぞれ自類に属する特長があり、例えば視覚の鋭敏な畜生は夜目が利き、聴覚の鋭敏な畜生もあれば、嗅覚の鋭敏な畜生、味覚の鋭敏な畜生、触覚の鋭敏な畜生もある。しかし畜生は概して、意識の思惟力が非常に弱く、論理分析力はなおさらなく、大部分は意根の直観力に頼っているので、比較的純粋に見える。腹を満たし生存するために造る殺業のほかは、ほとんど心思を用いてその他の悪業を造作することなく、純粋に受報する衆生に属する。
無色界の四空天の衆生は、その生存環境が無色であるため、色法の五塵がなく、色身もない。それゆえ勝義根 (indriya) もなく、内五塵・内法塵もなく、五識もないが、意識・意根と第八識はある。彼らの第八識と意根は永遠に存在して滅せず、意識も永遠に存在して滅せず、その意識が了別するのは定中の独影境であり、外法塵はなく、独影境のみである。もし意識が滅すれば、第八識と意根だけが残るが、それは滅尽定の境界に属する。それゆえ無色界天人の意識も永遠に存在して滅せず、昼と夜の区別がなく、睡眠や休息を必要とせず、永遠に定の中にあり、独影境と対している。
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