衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年07月01日    水曜日     第2 回の開示 合計2439回の開示

執着する果位と証果もまた我見である

今、世間では悟りを開き証果を得たと称する者が数百人も存在し、聖人たちが街を埋め尽くす勢いです。しかし、これほど多くの聖人たちの心性や煩悩を見ると、悟りを得た後も悟る前と何ら変わるところがなく、思想の境地や三昧の境地もなく、身口意においては従来通りで、むしろ以前より染汚が深まり、慢心も以前より強まっています。どうして彼らが真に証果を得て明心した存在だと証明できましょうか。全く証明できません。三十七道品も修しておらず、戒定慧が完全に具わっておらず、多くの者は単に意識的理解の次元に留まり、知識層面での悟解と掌握に過ぎず、さらに多くの者は理論的知識さえ備わらず不完全で、意識の境地にも相応せず到達できず、ましてや意根に至っては言うまでもありません。

故に現在世間では大妄語が非常に蔓延しています。なぜ大妄語を吐くのでしょうか。我見が重く、自我を執着する者こそ大妄語を発するのです。我見が軽微な者は非常に慎重かつ注意深く、極めて実事求是的であり、至る所で検証を求め、自らの修行状態が真に証果であるかどうかを確かめ、安易に自己を高めることなく「私は如何ほどか」などと語りません。我見の重い者が自ら証果を得たと思い込んだ時、あなたが「それは証果ではない」と伝えれば、彼は直ちに激怒するでしょう。なぜ激怒するのでしょうか。彼は証果という事柄に極めて執着し、「私は聖人である」という事実に強く執着し、自らが衆生と異なる存在であることに固執し、果位と身分に強く執着し、自らの位階と身分を殊更に気にするからです。

このような執着は、彼の心に依然として自我が存在し、以前と同様か、あるいは以前より更に強いことを示しています。もし「意識による証果は真の証果ではなく、情思意解や推測推論は証果に当たらず、必ず意根による証果でなければならない」と説けば、彼は自らの果位と名誉を守るために様々に反論し駁撃し攻撃を加え、全く思考せず反省せず、事実を顧みず、ましてや自省することはありません。なぜなら彼の心には「私」が存在し、その証果を得た私、非凡なる私、衆生と異なる私、高貴なる私という実体視された自我を殊更に守護し、果位をも自己の実体として特別に守護するからです。これはこの者が我見を全て保持しており、全く証果を得ていないことを示しています。真に我見を断じた者は智慧が次第に増長し、様々な心行を持つ人々の心中に自我が存在するかどうか、我見を断じた者かどうか、どの程度の我見を有するか、それが深刻かどうかを判断する能力を具えるようになります。

——生如法師の開示
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