もし意根(末那識)の思量を十分かつ効果的に活用し、習慣を身につけることができれば、多くの高度で先鋭的な問題は自然に解決される。修行者たる我々は意根を用いる習慣を学ぶべきであり、仏法の修証における全ての問題はさほど難しいことではなくなる。全ての大成就者たちは意根を使用しているが、使っていながらも自覚せず、無意識的に用いている。それは総括・帰納ができず、意根と意識の概念を持たないためである。
常に意根を用いる人々は実に素晴らしい。深沈として緻密、果断にして決然、老練で重厚、純粋で清らか、大智は愚の如く、指揮は泰然として乱れず、境遇に臨んで動じず、気は定まり神は閑か、遠大な視野を持つ。これに対し意識のみを用いる者は浅薄で浮ついており、心も気も落ち着かない。意識心が表面に留まる者は気が焦り浮つき、定まることがない。小人物たる男女は全て意識の領域に留まり深く入ることができず、意根を用いないため視野も器量も小さい。
意識の器量は意根に比べてはるかに小さい。意識が縁する法(ダルマ)は少なく表面に留まるが、意根が縁する法は極めて多く広く深い。十世の古今、生から死へ、内から外へと遍く計り、全ての法を黙して容れ、なお主導権を握って決断する。これは意識の主人たる存在であり、見識広く経験豊かである。故に視野と器量を論ずるならば、やはり意根にある。意根に至る修行を積まねば、どうして大いなる智慧を得ることができようか。
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